(一〇二)敏行朝臣の事

現代語訳

  1. `これも昔の話、藤原敏行という歌人は、筆の上手であったため、誰かの言葉に従い、法華経を二百部ほど書き奉った
  2. `そんな折、急に死んだ
  3. `自分は死ぬ
  4. `とも思わないのに、誰かがいきなり捕らえて連行するので
  5. `自分ほどの人間を、たとえ帝であろうとも、こんなふうにしてよいものか
  6. `得心がいかん
  7. `と思って、連行する人に
  8. `これはどういうことか
  9. `何の罪でこんな目に遭わなければならないのか
  10. `と尋ねると
  11. `さあ、自分は知らん
  12. `確かに連れて来い
  13. `という仰せを承ったから連れて参るのだ
  14. `おぬしは法華経を書き奉ったか
  15. `と問うので
  16. `しかじか書き奉った
  17. `と言うと
  18. `自分自身のためにはどれほど書いたのか
  19. `と問うので
  20. `自分のためというわけではない
  21. `ただ、人の書かせるままに二百部ほど書いたと思う
  22. `と言うと
  23. `そのことで訴えが起きて、裁きがあるようだ
  24. `とだけ言い、他のことは語らずに行けば、その途中、あさましく、正視もできぬ、恐ろしいと言うも愚かしい、目を見れば雷光のように閃き、口は炎のように恐ろしい形相をし、鎧兜を着、異様な馬に乗ってやって来る、二百人ほどの軍兵らと出会った
  25. `見れば肝も縮み倒れそうな心地になるが、ただ我を失ったまま、引き立てられて行った
  1. `そのとき、この軍兵が先に立って行った
  2. `自分を捕らえて行く人に
  3. `あの軍兵は何か
  4. `と問うと
  5. `知らぬのか
  6. `彼らこそ、おぬしに経を頼んで書かせた者たちで、その功徳により、天にも生まれ、極楽にも参り、また人に生まれ変わるとも善い身となって生まれもするはずだったのに、おぬしが、その経を書き奉るとき、魚を食い、女にも触れて、清らかでいることもなく、女にうつつをぬかしつつ書き奉ったので、その功徳が叶わず、このような猛々しい身に生まれてしまったがゆえ、おぬしを恨み
  7. `呼んでください
  8. `その恨みを晴らしたい
  9. `と訴えるので、今回は本来召される時機ではないが、その愁訴によって召されるのだ
  10. `と言うので、これを聞き、身を切るほどに思われ、心も凍りつき、死にそうな気分になった
  1. `それで、自分をどうしようと言っているんだ
  2. `と問うと
  3. `聞くも愚かなことだ
  4. `その持っている太刀や刀で、おぬしの身をまず二百に切り刻み、それぞれ一つずつ取る
  5. `その二百の細切れにおぬしの心が細切れになって入り込み、それぞれに魂を宿して、責め苛まれるに従ってつらい目を見るのだ
  6. `その耐え難さは譬えようもない
  7. `と言った
  8. `では、どうしたらそれから助かることができるのだ
  9. `と言うと
  10. `さて、見当もつかん
  11. `そもそも助かれるような身ではあるまい
  12. `と言うので、歩む気も失せてしまった
  1. `さらに行くと、大きな川があった
  2. `その水を見れば、濃く磨った墨の色をして流れている
  3. `気味悪い水の色だ
  4. `と見て
  5. `これはどういう水ゆえに墨の色をしているんだ
  6. `と問うと
  7. `知らんのか
  8. `これこそおぬしが書き奉った法華経の墨、それが流れているのだ
  9. `と言う
  10. `どういう理由で、こうして川になって流れているのか
  11. `と問えば
  12. `真心を尽くして清く書き奉った経はそのまま王宮に納められる
  13. `だが、おぬしの書き奉ったように、心汚く、身汚らわしくして書き奉った経は、広い野原に捨て置かれるので、その墨が雨に濡れ、こうして川となって流れるのだ
  14. `この川はおぬしが書き奉った経の墨の川だ
  15. `と言うのだから、恐ろしいと言うも愚かしい
  1. `なんとかこれから助かる方法はないのか
  2. `教えて、助けてください
  3. `と泣く泣く言うと
  4. `気の毒だが、軽い罪なら助かる手立てもあるだろう
  5. `だがこれは、考えも及ばず、口に出しようもない罪だ、あきらめろ
  6. `と言うので、すっかり言葉を失い、ただ行けば、恐ろしげな者らが走って来て
  7. `連れてくるのが遅い
  8. `と厳しく言うのを聞き、連行者は引っさげて連れて行った
  1. `大きな門があり、自分と同じように引っ張られ、首枷などを付けられ、縛り付けられ、堪え難い目に遭わされている者らが数知れず八方から集まってきて、門に隙間もないほど入り満ちている
  2. `見入っていると、先ほど遭った軍兵らが、目を怒らせ、舌舐めずりをし、自分を見つけると
  3. `早く連れてこい
  4. `というような雰囲気で、うろうろしていて、それを見ると地に足もつかない
  5. `困った困った、どうしたらいいだろう
  6. `と言うと、連行者が
  7. `四巻経を書き奉る
  8. `という願を起こせ
  9. `とこっそり言うので、たった今、門を入るときに
  10. `この咎は四巻経を書き供養して償う
  11. `という願を起こした
  1. `そして入ると、庁の前に引き据えられた
  2. `裁きをする人が
  3. `その者は敏行か
  4. `と問うと
  5. `さようでございます
  6. `と、連行者が答えた
  7. `しきりに愁訴があった者にもかかわらず、なぜ遅く参ったのか
  8. `と言うと
  9. `召し捕らえたまま、滞りなく連れて参りました
  10. `と答えた
  11. `娑婆の世界でどんなことをしてきたか
  12. `と問うので
  13. `別段これといってありません
  14. `人の頼みに従い、法華経を二百部書き奉りました
  15. `と答えた
  1. `それを聞いて
  2. `おまえは、本来授けられている命はあとしばらくあったが、その経の書き奉り方が汚らわしく、清らかでないままに書いたゆえ、訴えが起こって捕らえられたのだ
  3. `速やかに訴える者どもに引渡し、好き放題にさせるがよい
  4. `と言うと、例の軍兵らが嬉しげな様子で受け取ろうとするので、わななきわななき
  5. `四巻経の書き供養する願がありますが、そのことをいまだ遂げもしないのに召し出されてしまいましたので、この罪の重さゆえに抗弁の余地もありません
  6. `と言うと、沙汰する者は聞いて驚き
  7. `そのような事実があるのか
  8. `事実ならば、気の毒なことだ
  9. `帳簿を引いてみよ
  10. `と言うので、ある人が大きな帳簿を取り出して引いてみれば、自分の行い一つ残らず記されていたが、中には罪ばかりあって功徳については一つもない
  11. `この門に入るときに起こした願なので、最後に記されていた
  1. `帳簿を引き終え
  2. `その件はございました
  3. `最後に記されておりました
  4. `と述べると
  5. `それは実に気の毒だ
  6. `今回は暇を許し与え、その願を遂げさせ、その後はいかようにも処せばよい
  7. `と裁かれたので、目を怒らして我が身を得ようと手ぐすねを引いていた軍兵らは消え失せた
  8. `確かに娑婆の世界へ戻り、その願を必ず遂げさせよ
  9. `と許されたと思った途端、生き返った
  1. `妻子が泣きあっていた二日目、夢から覚めたような心地で目を開ければ
  2. `生き返った
  3. `と喜んで湯を飲ませたりした
  4. `さて、自分は確かに死んだんだな
  5. `と気づき、問い糺されたことや、起こった出来事、願を起こし、その力によって許されたことなどを、曇りのない鏡に向き合ったように覚えていたので、そのうち自分の力が戻ったら、清くなり
  6. `心清くして四巻経を書き供養し奉ろう
  7. `と思った
  1. `少しずつ日が過ぎて、普段のような心地になったので、そのうち四巻経を書き奉るべき料紙を経師に継ぎ合わさせ、罫を引かせて
  2. `書き奉ろう
  3. `と思いはしたが、生来の色好みの心が顔を出し、経仏の方へは心が向かず、この女のもとへ行き、あの女に懸想し
  4. `なんとかいい歌を詠もう
  5. `などと思っているうちに、時を失い、はかなく年月を過ごし、経も書き奉らずに、授かった寿命が切れ、ついに死んでしまった
  1. `その後、十二年ほどを隔て、紀友則という歌人が夢の中で
  2. `この敏行と思しき人物に会ったのだが、敏行とは思うものの、姿形が譬えようもないほどあさましく恐ろしく忌まわしげで、彼が、生前にも語っていたことを
  3. `四巻経を書き奉るという願を立てたことにより、しばらく命を助けられ返されたものの、それでもやはり心愚かにしてそれを怠り、経を書かず、ついに死んでしまった罪により、譬えようもない苦を受けております、もし憐れと思われるなら、そのための料紙はまだあると思いますから、その紙を手に入れて、三井寺にいる何某という僧に頼み、書き供養をして下さい
  4. `と、大きな声をあげて泣き叫ぶ
  5. `と見て、寝汗をかいて目を覚ましたので、夜の明けるももどかしく、その料紙を手に入れ、急ぎ三井寺へ向かい、夢に見た僧のを訪ねれば、僧が見つけて
  6. `嬉しいことです
  7. `ただいま人を参らせよう
  8. `また自分も参ろう
  9. `と思っていたところでしたので、こうしておいでいただいたことを嬉しく思います
  10. `と言うので、まずは自分の見た夢を語らずに
  11. `何事ですか
  12. `と問うと
  13. `今宵の夢に、亡き敏行朝臣が現れました
  14. `四巻経書き奉るはずであったのを、怠って書き供養し奉らずにいたところ、その罪によって極まりない苦しみを受けてしまったので、その料紙は紀友則殿のところにあるので四巻経を書き供養してほしい
  15. `事情は貴殿に聞いてほしい
  16. `と語られ、大きな声を放ち、泣き叫んでおられた姿を見たのです
  17. `と語れば、その哀れさはただごとではない
  18. `二人向き合ってさめざめと泣き
  19. `自分もしかじかの夢を見て、その料紙を手に入れ、ここに持って参ったのです
  20. `と言って手渡すと、とても哀れんで、この僧が、真心を尽くして自分の手で書き供養し奉れば、また、二人は夢で
  21. `この功徳によって堪え難い苦しみから少し免れたとのことで、心地よさげで、様子もはじめ見たときとは変わってよかった
  22. `と見た