四三六山伏舟祈り返す事
現代語訳
- `これも昔の話、越前国甲楽城の渡りという所で、海を渡ろうと人々が集まっている中に、けいとう房という山伏がいた
- `熊野、御岳は言うに及ばず、白山、伯耆の大山、出雲の鰐淵などで修行し、残した所はほとんどなかった
- `その者が、この甲楽城の渡りへ行き、渡ろうとしたときは、同じく渡ろうとする者がおびただしくいた
- `渡し守は人々から舟賃をもらって渡す
- `このけいとう坊が
- `渡せ
- `と言うと、渡し守は耳も貸さずに漕ぎ出した
- `その時、この山伏は
- `なぜそんなひどいことをするのか
- `と言ったが、少しも聞き入れることなく沖へ漕ぎ出してしまった
- `すると、けいとう坊は、歯を食いしばり、数珠を揉みちぎった
- `渡し守が見返って
- `ばかなことをやっている
- `と思った様子で二・三町ほど行くと、けいとう坊はそれを見て、足を砂に半ら踏み入れ、目を真っ赤にして睨み、数珠も砕けんばかりに揉みちぎり
- `召し返せ、召し返せ
- `と叫んだ
- `それでもなお行こうとすれば、けいとう坊は、袈裟と数珠とを取り出し、汀近くに歩み寄って祈る
- `召し返せ
- `召し返さずば、長く三宝ともお別れいたす
- `と叫んで、その袈裟を海に投げ込もうとした
- `それを見て、集まっていた者たちは顔色を失って立っていた
- `こう祈っていると、風も吹かないのに去り行く舟がこちらへ近づいてくる
- `それを見て、けいとう坊が
- `寄ってくるぞ、寄ってくるぞ
- `早く連れて来い、早く連れて来い
- `とさらに祈れば、見る者は顔色を変えた
- `こうして祈るうちに一町足らずまで寄せてきた
- `その時、けいとう坊は
- `さあ今度はひっくり返せ、さあ今度はひっくり返せ
- `と叫んだ
- `それを聞いて、集まり見ている者らは、一斉に
- `そんな殺生な
- `たいへんな罪ですぞ
- `どうかそのままに、どうかそのままに
- `と言ったが、けいとう坊が少しばかり表情を変え
- `さあ、ひっくり返してください
- `と叫ぶと、二十人余りが乗っていたこの渡し舟がざぶりと転覆した
- `けいとう坊は、汗を拭い
- `なんともあきれた奴らだ
- `まだわからんのか
- `と言って去って行った
- `世の末ではあるが、三宝は確かにいらしたという