一九(一四四)小宰相

原文

  1. `越前三位通盛卿の侍に君田滝口時員といふ者あり
  2. `急ぎ北方の御船に参つて申しけるは
  3. `君は今朝湊川の下にて敵七騎が中に取り籠め参らせてつひに討たれさせ給ひて候ひぬ
  4. `中にも殊に手を下ろいて討ち奉つたりしは近江国の住人佐々木木村三郎成綱武蔵国の住人玉井四郎資景とぞ名乗り参らせて候ひつれ
  5. `時員も一所で討死仕り最後の御供仕るべう候ひしかども予てより仰せ候ひしは
  6. `通盛いかになるといふとも汝は命を捨つべからず
  7. `いかにもして長らへて御行方をも尋ね参らせよ
  8. `と仰せ候ひしほどにかひなき命ばかり生きてつれなうこそこれまで参つて候へ
  9. `と申しければ北方とかうの返事にも及び給はず引き被いてぞ臥し給ふ
  1. `一定討たれぬとは聞き給へどももし僻事にてもやあるらん生きて還らるる事もや
  2. `と二三日は白地に出でたる人を待つ心地しておはしけるが四五日も過ぎしかばもしやの頼みも弱り果てていとど心細うぞなられける
  3. `ただ一人付き奉りたりける乳母の女房も同じ枕に臥し沈みにけり
  4. `かくと聞き給ひし七日の日の暮れほどより十三日の夜までは起きも上がり給はず
  1. `明くれば十四日八島へ着かんとての宵うち過ぐるまでは臥し給ひたりけるが更けゆくままに船の内静まりければ乳母の女房に宣ひけるは
  2. `今朝までは三位討たれにしと聞きしかどもまこととも思はでありつるがこの暮れほどよりげにさもあるらんと思ひ定めてあるぞとよ
  3. `その故は皆人毎に
  4. `湊川とやらんにて三位討たれにし
  5. `とは云ひしかどもその後
  6. `生きて逢ひたり
  7. `といふ者一人も無し
  1. `明日うち出でんとての夜白地なる所にて行き合ひたりしかばいつよりも心細げにうち嘆いて
  2. `明日の軍には通盛必ず討たれんずるはとよ
  3. `我いかにも成りなん後人はいかがし給ふべき
  4. `など云ひしかども軍はいつもの事なれば一定さるべしとも思はでありつる事こそ悲しけれ
  5. `それを限りとだに思はましかばなど後の世と契らざりけんと思ふさへこそ悔しけれ
  1. `ただならず成りたる事をも日比隠して云はざりしかどもあまりに心強う思はれじとて云ひ出だしたりしかば斜めならず嬉しげにて
  2. `通盛三十に成るまで子といふものの無かりつるにあはれ同じうは男子にてもあれかし
  3. `世の忘れ形見に思ひ置くばかり
  4. `さて幾月ほどになるやらん
  5. `心地はいかがあるらん
  6. `いつとなき波の上船の内の住まひなれば静かに身々となりて後いかがはし給ふべき
  7. `など云ひしははかなかりける兼言かな
  8. `まことやらん女はさやうの時十に九つは必ず死ぬるなれば恥ぢがましき目を見て空しうならんも心憂し
  9. `静かに身々と成つて後幼き者共育てて亡き人の形見にも見ばやとは思へども幼き者を見ん度毎には昔の人のみ恋しくて思ひの数は増さるとも慰む事はよもあらじ
  1. `つひには遁るまじき道なり
  2. `もしこの世を忍び過ごすとも心に任せぬ世の習ひは思はぬ外の不思議もあるぞとよ
  3. `それも思へば心憂し
  4. `微睡めば夢に見え覚むれば面影に立つぞとよ
  5. `生きて居てとにかくに人を恋しと思はんより水の底へも入らばやと思ひ定めてあるぞとよ
  6. `其処に一人留まつて嘆かんずる事こそ心苦しけれどもそれは生くる身なれば嘆きながらも過ごさんずらん
  7. `わらはが装束のあるをば取つていかならん僧に賜び亡き人の御菩提をも弔ひ参らせわらはが後世をも助け給へ
  8. `書き置きたる文をば都へ伝へて給べ
  9. `など細々と宣へば乳母の女房涙を押さへて
  10. `稚き子をも振り捨て老いたる親をも留め置き遥々とこれまで付き参らせて候ふ志をばいかばかりとか思し召され候ふべき
  11. `今度一谷にて討たれさせ給ふ人々の北方の御嘆き共いづれかおろかに渡らせ給ひ候ふべき
  12. `されどもいづれか御身をば投げさせ給ふべき
  13. `静かに身々と成らせ給ひていかならん岩木の狭間にても幼き人を育て参らせ御様を替へ仏の御名を唱へて亡き人の御菩提を弔ひ参らさせ給へかし
  14. `必ず一つ道へとは思し召され候ふとも生れ変はらせ給ひなん後六道四生の間にていづれの道へか赴かせ給はんずらん
  15. `行き合はせ給はん事も難ければ御身を投げても由なき御事なり
  16. `その上都の御事をば誰か見継ぎ参らせよとてかやうには仰せ候ふやらん
  17. `恨めしうも承り候ふものかな
  18. `とてさめざめと掻き口説きければ北方この事悪しうも聞かれぬとや思はれけん
  19. `これは心に代はつても推し量り給ふべし
  20. `大方の世の恨めしさにも人の別れの悲しさにも身を投げんなどいふは常の習ひ
  21. `されどもそれは有難き例しなり
  22. `たとひ思ひ立つ事共そこに知らせずしてはあるまじきぞ
  23. `今は夜も更けぬ
  24. `いざや寝ん
  25. `と宣へば乳母の女房
  26. `この四五日は湯水をだにはかばかしう御覧じ入れさせ給はぬ人のかやうに細々と仰せらるるはまことに思し召し立つ事もや
  27. `と悲しうて
  28. `大方は都の御事もさる御事にて候へどもげに思し召し立つ事ならばわらはをも千尋の底までも引きこそ具せさせ給はめ
  29. `後れ参らせなん後更に片時長らふべしとも覚えぬものを
  30. `など申して御側にありながらちとうち目睡たりける隙に北方やはら舷へ起き出で給ひて漫々たる海上なれば何方を西とは知らねども月の入るさの山の端を其方の空とや思しけん静かに念仏し給へば沖の白洲に鳴く千鳥天戸渡る楫の音折から哀れや増さりけん忍び声に念仏百遍ばかり唱へさせ給ひつつ
  31. `南無西方極楽世界教主弥陀如来本願誤たず浄土へ導き給ひつつ飽かで別れし妹背の仲らひ必ず一蓮に
  32. `と泣く泣く遥かに掻き口説き
  33. `南無
  34. `と唱ふる声共に海にぞ沈み給ひける
  35. `一谷より八島へ押し渡らんとての夜半ばかりの事なりければ船の内静まつて人これを知らざりけり
  1. `その中に梶取の一人寝ざりけるがこの由を見奉りて
  2. `あれはいかにあの御船より女房の海へ入らせ給ひぬるはよ
  3. `と喚ばはりたければ乳母の女房うち驚き傍を探れどもおはせざりければただ
  4. `あれよあれ
  5. `とぞあきれける
  6. `人数多下りて取り上げ奉らんとしけれどもさらぬだに春の夜は習ひに霞むものなれば四方の村雲浮かれ来て潜けども潜けども月朧にて見え給はず
  1. `遥かにほど経て後上げ奉たりけれどもはやこの世に亡き人となり給ひぬ
  2. `白袴に練貫の二つ衣を着給へり
  3. `髪も袴も潮垂れて取り上げけれどもかひぞなき
  4. `乳母の女房手に手を取り組み顔に顔を押し当てて
  5. `などこれほどに思し召し立つ事ならばわらはをも千尋の底までも引きこそ具せさせ給ふべけれ
  6. `恨めしうもただ一人留めさせ給ふものかな
  7. `さるにても今一度物仰せられてわらはに聞えせさせ給へ
  8. `とて悶え焦がれけれどもはやこの世に亡き人となり給ひぬる上は一詞の返事にも及び給はず僅かに通ひつる息もはや絶え果てぬ
  1. `さるほどに春の夜の月も雲井に傾き霞める空も明けゆけば名残は尽きせず思へどもさてしもあるべき事ならねば浮きもや上がり給ふと故三位殿の着背長の一領残りたりけるに引き纏ひ奉りつひに海へぞ沈めける
  2. `乳母の女房も
  3. `今度は後れじ
  4. `と続いて海へ入らんとしけるを人々取り留めければ力及ばず
  5. `せめてのせん方なきにや手づから髪を鋏み落し中納言律師忠快に剃らせ奉り泣く泣く戒を保つて主の後世をぞ弔ひける
  6. `昔より男に後るる類多しといへども様を替へるは常の習ひ身を投ぐるまでは有難き例しなり
  7. `忠臣は二君に仕へず貞女は二夫に見えず
  8. `ともかやうの事をや申すべき
  1. `そもこの北方と申すは頭刑部卿則方の娘上西門院の女房宮中一の美人名をば
  2. `小宰相殿
  3. `とぞ申しける
  4. `この女房十六と申しし春の比女院法勝寺へ花見の御幸のありしに通盛卿その時は未だ中宮亮にて供奉せられたりけるがこの女房をただ一目見て哀れと思ひ初めしよりその面影のみ身にひしと立ち添ひて忘るる隙もなかりければ歌を詠み文をば尽くされけれども玉章の数のみ積つて取り入れ給ふ事もなし
  5. `剰へ取り伝へける女房にだに逢はずして使空しう帰りける道にて折節小宰相殿は里より御所へぞ参られける
  6. `使空しう帰り参らん事の本意なさに傍をつと走り通るやうにて小宰相殿の車の簾の内へ通盛の文をぞ投げ入れたる
  7. `伴の者共に問ひ給へば
  8. `知らず
  9. `と申す
  1. `さてかの文を開けて見給へば通盛卿の文にてぞありける
  2. `車に置くべきやうもなし
  3. `大路に捨てんもさすがにて袴の腰に挟みつつ御所へぞ参り給ひける
  4. `さて宮仕へ給ひしほどに所しもこそ多けれ御前に文を落されたり
  5. `女院これを取らせおはしまし急ぎ御衣の御袂に引き隠させ給ひて
  6. `珍しき物をこそ求めたれ
  7. `この主は誰なるらん
  8. `と仰せければ御所中の女房達万の神仏にかけて
  9. `知らず
  10. `とのみぞ申されける
  1. `その中に小宰相殿ばかり顔うち赤めてつやつや物も申されず
  2. `女院も内々通盛卿の申すとは知ろし召されたりければさてこの文を開けて御覧ずれば妓炉の煙の匂ひ殊に懐かしく筆の立所も世の常ならず
  3. `あまりに人の心強きも今は中々嬉しくて
  4. `など細々と書いて奥には一首の歌ぞありける
  5. `我が恋はほそ谷川のまろき橋ふみかへされてぬるる袖かな
  1. `女院
  2. `これは逢はぬを恨みたる文なり
  3. `あまり人の心強きも中々今は仇となりなんものを
  4. `中比小野小町とて眉目形美しう情の道有難かりしかば見る人聞く者肝魂を傷ましめずといふ事なし
  5. `されども心強き名をや取りたりけん果てには人の思ひの積りて風を防ぐ便りもなく雨を漏らさぬ業もなし
  6. `女院
  7. `これはいかにも返事あるべき事ぞ
  8. `とて御硯召し寄せて忝くも自ら御返事遊ばされけり
  9. `ただ頼めほそ谷川のまろきばしふみかへしてはおちざらめやは
  1. `胸の内の思ひは富士の煙に顕れ袖の上の涙は清見関の波なれや
  2. `眉目は幸の花なれば三位この女房を賜はつて互ひの志浅からず
  3. `されば西海の旅の空船の内の住まひまでも引き具してつひに同じ道へぞ赴かれける
  4. `門脇中納言は嫡子越前三位末子業盛にも後れ給ひぬ
  5. `今頼み給へる人とては能登守教経僧には中納言律師忠快ばかりなり
  6. `故三位殿の形見ともこの女房をこそ見給ふべきにそれさへかやうに成り給へばいと心細うぞなられける