一八(一四三)落足

原文

  1. `小松殿の末の子備中守師盛は主従七人小舟に乗り落ち給ふ処にここに新中納言知盛卿の侍に清衛門尉公長といふ者鞭鐙合はせて馳せ来たり
  2. `あれはいかに備中守殿の御舟とこそ見参らせて候へ
  3. `参り候はん
  4. `と申しければ舟を渚へ差し寄せらる
  5. `大の男の鎧着ながら馬より舟へがばと飛び乗らうになじかはよかるべき
  6. `舟は小さしくるりと踏み返してけり
  7. `備中守浮きぬ沈みぬし給ふ処に畠山が郎等本田次郎主従十四五騎鞭鐙を合はせて馳せ来たり急ぎ馬より飛んで下り備中守を熊手に懸けて引き上げ奉りつひに御首をぞ馘いてける
  8. `生年十四歳とぞ聞えし
  1. `越前三位通盛卿は山手の大将軍にておはしけるがその日の装束には赤地錦の直垂に唐綾威の鎧着て白葦毛なる馬に白覆輪の鞍置きて乗り給ひたりけるが内甲を射させ大勢に押し隔てられ弟能登殿には離れ給ひぬ
  2. `心静かに自害せんとて東に向かつて落ち行き給ふほどに近江国の住人佐々木木村三郎成綱武蔵国の住人玉井四郎資景かれこれ七騎が中に取り籠め参らせてつひに討ち奉つてけり
  3. `その時までは侍一人付き奉つたりけれどもこれも最後の時は落ち合はず
  1. `凡そ東西の木戸口時を移すほどにもなりしかば源平が数を尽して討たれにけり
  2. `矢蔵の前逆茂木の下人馬の肉山の如し
  3. `一谷の小篠原緑の色を引き替へて薄紅にぞなりにける
  4. `一谷生田森山の傍海の汀に射られ斬られて死ぬるは知らず源氏の方に斬り懸けらるる平家の首共二千余人なり
  5. `今度一谷にて討たれさせ給へける宗徒の人々にはまづ越前三位通盛弟蔵人大夫業盛薩摩守忠度武蔵守知章備中守師盛尾張守清定淡路守清房経盛の嫡子皇后宮亮経正弟若狭守経俊その弟大夫敦盛以上十人とぞ聞えし
  1. `軍敗れにければ主上を始め参らせて人々皆御船に召して出でさせ給ふこそ悲しけれ
  2. `潮に引かれ風に随つて紀伊路へ赴く舟もあり
  3. `葦屋の沖に漕ぎ出でて波に揺らるる舟もあり
  4. `或いは須磨より明石の浦伝ひ泊り定めぬ梶枕片敷く袖も萎れつつ朧に見ゆる春の月心を砕かぬ人ぞ無き
  5. `或いは淡路の瀬戸を押し渡り絵島の磯に漂へば波路幽かに鳴き渡り友迷はせる寒夜千鳥これも我が身の類かな
  6. `行先未だ何処とも思ひ定めぬかと思しくて一谷の沖に休らふ舟もあり
  1. `かやうに潮に引かれ風に任せて浦々島々に漂へば互ひに死生も知り難し
  2. `国を従ふる事も十四箇国勢の付く事も十万余騎なり
  3. `都へ近づく事も僅かに一日の道なれば今度はさりともと頼もしう思はれつるに一谷も攻落されて人々皆心細うぞなられける