一四五首渡

原文

  1. `寿永三年二月七日摂津国一谷にて討たれし平氏の首共十二日に都へ入る
  2. `平家に結ぼほれたる人々
  3. `今度我方様にいかなる憂き事をか聞かんずらんいかなる憂き目を見んずらん
  4. `と嘆き合ひ悲しみ合はれけり
  1. `中にも大覚寺に隠れ居給へる小松三位中将維盛卿の北方は殊更覚束なう思はれけるに今は三位といふ公卿一人生捕にせられて上るなりと聞き給ひてその人離れじものを
  2. `その人離れじものを
  3. `とて引き被いてぞ臥し給ふ
  4. `ある女房の参りて申しけるは
  5. `三位中将殿とはこれの御事では候はず
  6. `本三位中将殿の御事なり
  7. `と申しければ
  8. `さては首共の中にこそあるらめ
  9. `とていとど心安うも思ひ給はず
  1. `同じき十三日大夫判官仲頼六条河原に出で向かつて平氏の首共受け取る
  2. `東洞院を北へ渡つて獄門の木に懸けらるべき
  3. `由範頼義経奏聞す
  4. `法皇
  5. `この事いかがあらんずらん
  6. `と思し召し煩はせ給ひて太政大臣左右大臣内大臣堀川大納言忠親卿に仰せ合はせらる
  1. `五人の公卿申されけるは
  2. `昔より卿相の位に至る人の首大路を渡さるる事先例なし
  3. `中にもこの輩は先帝の御時より戚里の臣として久しく朝家に仕る
  4. `範頼義経が申状強ちに御許容あるべからず
  5. `と申されければ渡さるまじきに定められたりしかども範頼義経重ねて奏聞しけるは
  6. `保元の昔を思へば祖父為義が仇平治の古を案ずるに父義朝が敵なり
  7. `今度平氏の首大路を渡されざらんに於いては自今以後何の勇あつてか凶賊を退けんや
  8. `と頻りに訴へ申されければ法皇力及ばせ給はずつひに渡されけり
  1. `見る人幾千万といふ数を知らず
  2. `帝闕に袖を連ねし古は怖ぢ恐るる輩多かりき
  3. `巷に頭を渡さるる今はまた憐れみ悲しまずといふ事なし
  4. `中にも大覚寺に隠れ居給へる小松三位中将維盛卿の若君六代御前に付き奉つたりける斎藤五斎藤六あまりの覚束なさに様を窶して見ければ御首共は見知り奉りたれども三位中将殿の御首は見え給はず
  5. `されどもあまりの悲しさに慎むに堪へぬ涙のみ繁かりければ余所の人目も恐ろしくて急ぎ大覚寺へぞ参りける
  1. `北方
  2. `さていかに
  3. `と問ひ給へば
  4. `人々の御首共は皆見知り奉つたれども三位中将の御首は見えさせ給ひ候はず
  5. `御兄弟の御中には備中守殿の御首ばかりこそ見えさせ給ひ候ひつれ
  6. `その外はそんぢやうその御首その御首
  7. `と申しければ北方
  8. `それも人の上とも覚えず
  9. `とて引き被いてぞ臥し給ふ
  1. `ややあつて斎藤五涙を押さへて申しけるは
  2. `この一両年は隠れ居候ひて人にもいたう見知られ候はずばいま暫く見参らせたう存じ候ひつれども世に案内委しう知つたる者の申し候ひしは
  3. `今度の合戦に小松殿の君達は播磨と丹波の境なる三草山を固めさせ給ひ候ひけるが九郎義経に破られて新三位中将殿同じき少将殿丹波侍従殿は播磨の高砂より御舟に召して讃岐の八島へ渡らせ給ひて候ひぬ
  4. `何として離れさせ給ひて候ひけるやらんその中に備中守殿ばかりこそ今度一谷にて討たれさせ給ひて候へ
  5. `さて三位中将殿の御事はいかに
  6. `と問ひ候ひつれば
  7. `それは軍以前より大事の御労りとて讃岐八島へ渡らせ給ひてこの度は向かはせ給ひ候はず
  8. `と申す者に逢つて候ひつれ
  9. `と細々と語り申したりければ北方
  10. `それも我等が事を心苦しう思ひ給ひて朝夕嘆かせ給ふが病となりたるにこそ
  11. `風の吹く日は今日もや船に乗り給ふらんと肝を消し軍といふ時は只今もや討たれ給ひぬらんと心を尽す
  12. `況してさやうの御労りなどをば誰か心安う扱ひ奉るべき
  13. `かれを委しう聞かばや
  14. `と宣へば若君姫君も
  15. `など何の御労りとは問はざりけるぞ
  16. `と宣ひけるこそ哀れなれ
  1. `三位中将も通ふ心なれば
  2. `矢に当たつても死に水に溺れて失せぬらん
  3. `未だこの世に在るものとはよも思ひ給はじ
  4. `露の命の憂き世に長らへたるを知らせ奉らん
  5. `とて侍一人為立てて都へ上らせけるが三つの文をぞ書かれける
  1. `まづ北方への御文には
  2. `都には敵満ち満ちて御身一つの置き所だにあらじに幼き者共を引き具していかに悲しうおはすらん
  3. `さらばこれへ迎へ参らせて一所にていかにも成らばやとは思へども我が身こそあらめ御為労しくて
  4. `など細々と書いて奥に一首の歌ぞありける
  5. `いづくしらぬあふ瀬のもしほ草かきおく跡をかた見とも見よ
  1. `さて幼き少なき人々の御許へは
  2. `つれづれをば何としてかは慰み給ふらん
  3. `これへ迎へ取らんずるぞ
  4. `と詞も変はらず書いて上せらる
  5. `使都へ上り北方に御文取り出で奉る
  6. `これを開けて見給ひていとど思ひや増さられけん引き被いてぞ臥し給ふ
  1. `かくて四五日も過ぎしかば使は御暇申す
  2. `北方泣く泣く御返事書きて給へり
  3. `若君姫君筆を染めて
  4. `さて父への御返事は何と申すべきやらん
  5. `と問はれければ北方
  6. `ただ面々の思はんずるやうを申すべし
  7. `とぞ宣ひける
  8. `などや今まで迎へさせ給はぬぞ
  9. `あまりに御恋しう思ひ参らせ候ふに疾く疾く迎へさせ給へ
  10. `と同じ詞にぞ書いて下されけり
  1. `使八島に帰り参つて三位中将殿に御返事取り出で奉る
  2. `まづ幼き人々の御返事を見給ひてぞいとどせん方なげには見えられける
  3. `抑もこれより穢土を厭ふに勇なし
  4. `閻浮愛執の綱強ければ浄土を願ふも物憂し
  5. `ただこれより山伝ひに都へ上り恋しき者共を今一度見もし見えて後自害せんには如かじ
  6. `とぞ泣く泣く語り給ひける