(五二)厳島御幸

原文

  1. `治承四年正月一日鳥羽殿には相国も許さず法皇も恐れさせましましければ元日元三の間参入する人もなし
  2. `されどもその中に故少納言入道信西の子息桜町中納言重範卿その弟左京大夫脩範ばかりぞ許されては参られける
  1. `同じき二十日春宮御袴着並びに御真魚始とてめでたき事共ありしかども法皇は鳥羽殿にて御耳の余所にぞ聞し召す
  1. `二月二十一日主上殊なる御恙も渡らせ給はぬを押し下し奉りて東宮践祚あり
  2. `これも入道相国よろづ思ふ様なるが致すところなり
  3. `時よくなりぬとて犇き合へり
  1. `神璽宝剣内侍所渡し奉る
  2. `上達部陣に集まりて古き事共先例に任せて行ひしに左大臣殿陣に出でて御位譲りの事共仰せしを聞きて心ある人々の涙を流し心を痛ましめずといふ事なし
  3. `我と御位を儲けの君に譲り奉り藐姑射の山の内にも閑かになど思し召す
  4. `前々だにも哀れ大き習ひぞかし
  5. `況やこれは御心ならず押し下されさせましましけん哀れさは申すも中々おろかなり
  6. `伝はれる御宝物共種々司々受け取りて新帝の皇居五条内裏へ渡し奉る
  7. `閑院殿には火影幽かに鶏人の声も止まり滝口の問籍も絶えにしかば古き人々はめでたき祝ひの中にも今更哀れに覚えて涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり
  1. `新帝は今年三歳
  2. `あはれいつしかなる譲位かな
  3. `と時の人々囁き合はれけり
  1. `平大納言時忠卿は内の御乳母帥典侍の夫たるによつて
  2. `今度の譲位いつしかなりと誰か傾け申すべき
  3. `異国には周の成王三歳晋の穆帝二歳我が朝には近衛院三歳六条院二歳これ皆襁褓の中に包まれて衣帯を正しうせざりつしかども或いは摂政負うて位に即き或いは母后抱いて朝に臨むと見えたり
  4. `後漢の孝殤皇帝は生れて百日といふに践祚あり
  5. `天子位を践む先蹤和漢かくの如し
  6. `と申されければその時有職の人々
  7. `あな恐ろし物な申されそ
  8. `さればそれらはよき例共かや
  9. `とぞ呟き合はれける
  1. `春宮位に即かせ給ひしかば入道相国夫婦共に外祖父外祖母とて准三后の宣旨を蒙り年官年爵を賜はつて上日の者を召し使ひ絵書き花つけたる者共出入りて偏に院宮の如くにてぞありける
  2. `出家の人の准三后の宣旨を蒙る事は法興院大入道殿兼家公の例なり
  1. `同じき三月上旬に上皇安芸の厳島へ御幸成るべしと聞えけり
  2. `帝王位をすべらせ給ひて諸社の御幸始めには八幡賀茂春日へこそ御幸は成るべきに遥々と安芸国までの御幸はいかに
  3. `と人不審をなす
  4. `ある人の申しけるは
  5. `白河院は熊野へ御幸後白河は日吉社へ御幸成る
  6. `既に知んぬ叡慮にありと申す事を
  7. `御心に深き御立願ありその上この厳島をば平家斜めならずに崇め敬ひ申されける間上には平家御同心下には法皇のいつとなく鳥羽殿に押し籠められて渡らせ給へば入道相国の心をも和らぎ給ふかとの御謀
  8. `とぞ聞えし
  1. `山門の大衆蜂起して
  2. `主上位をすべつて諸社の御幸始めには石清水賀茂春日へ御幸成らずば我が山の山王へこそ御幸は成るべけれ
  3. `安芸国までの御幸はいつの習ひぞや
  4. `その儀ならば神輿を振り下ろし奉つて御幸を止め奉れ
  5. `とぞ申しける
  6. `これによつて暫く御延引ありけり
  7. `入道相国やうやうに宥め宣へば山門の大衆静まりぬ
  1. `同じき十七日上皇厳島御幸の御門出とて入道相国の北方二位殿の宿所八条大宮へ御幸成る
  2. `その日やがて厳島の御神事始めらる
  3. `その日の暮れ方に殿下より唐の御車移しの馬などを参らせらる
  1. `明くる十八日入道相国の亭へ入らせおはします
  2. `前右大将宗盛卿を召して
  3. `明日御幸の御次に鳥羽殿へ参つて法皇の御見参に入らばやと思し召すはいかに
  4. `相国禅門に知らせずしては悪しかりなんや
  5. `と仰せければ宗盛卿
  6. `何条事か候ふべき
  7. `と奏せられたりければ
  8. `さらば汝今夜鳥羽殿へ参りてそのやうを申せかし
  9. `と仰せければ畏り承つて急ぎ鳥羽殿へ参つてこの由奏聞せられければ法皇あまりに思し召す御事にて
  10. `こは夢やらん
  11. `とぞ仰せける
  1. `明くる十九日大宮大納言隆季卿未だ夜深う参つて御幸催されけり
  2. `この日比聞えさせ給ひつる厳島御幸をば西八条の亭より既に遂げさせおはします
  3. `弥生も半ば過ぎぬれど霞に曇る有明の月は朧なり
  4. `越路を指して帰る雁の雲井に訪れ行くも折節哀れに聞し召す
  1. `未だ夜の内に鳥羽殿へ御幸成る
  2. `門前にて御車より下りさせおはしまし門の内へ差し入らせ給ふに人稀にして木暗く物寂しげなる御住居まづ哀れにぞ思し召す
  3. `春既に暮れなんとす
  4. `夏木立にもなりにけり
  5. `梢の花色衰へて宮の鶯声老いたり
  1. `去年の正月六日朝覲の為に法住寺殿へ行幸ありしには楽屋に乱声を奏し諸卿列に立つて諸衛陣を引き院司の公卿参り向かつて幔門を開き掃部寮莚道を敷き正しかりし儀式一事もなし
  2. `今日はただ夢とのみぞ思し召す
  1. `重範中納言参つて御気色申されたりければ法皇ははや寝殿の階隠の間へ御幸成つて待ち参らさせ給ひけり
  2. `上皇は今年二十明け方の月の光に映えさせ給ひて玉体もいとど美しうぞ見えさせましましける
  3. `御母儀故建春門院にいたく似参らさせ給ひたりしかば法皇はまづ故女院の御事思し召し出でて御涙塞き敢へさせ給はず
  4. `両院の御座近く設はれたり
  5. `御問答は人承るに及ばず
  6. `御前には尼前ばかりぞ候はれける
  1. `やや久しく御物語せさせおはしまし遥かに日闌けて後御暇申させ給ひて鳥羽の草津より御船にぞ召されける
  1. `上皇は法皇の離宮の故亭幽閑寂莫の御住居御心苦しう御覧じ置かせ給へば法皇はまた上皇の旅泊行宮の波の上船の内の御有様覚束なくぞ思し召されける
  2. `まことに宗廟八幡賀茂などを差し置かせ給ひて遥々と安芸国までの御幸をば神明もなどか御納受なかるべき
  3. `御願成就疑ひなしとぞ見えたりける