一九(五一)城南離宮

原文

  1. `百行の中には孝行を以て先とす
  2. `明王は孝を以て天下を治む
  3. `と云へり
  4. `されば
  5. `唐尭は老い衰へたる母を貴び虞舜は頑ななる父を敬ふ
  6. `と見えたり
  7. `かの賢王聖主の先規を追はせましましけん叡慮のほどこそめでたけれ
  1. `その比内裏より鳥羽殿へ密かに御書ありけり
  2. `かからん世には雲井に跡を留めても何にかはし候ふべきなれば寛平の昔をも訪ひ花山の古を尋ねて山林流浪の行者ともなりぬべうこそ候へ
  3. `と遊ばされたりければ法皇の御返事に
  4. `さな思し召され候ひそ
  5. `さて渡らせ給へばこそ一つの頼にても候へ
  6. `跡なく思し召し成らせ給ひなん後は何の頼みか候ふべき
  7. `ただともかうも愚老がならんやうを聞し召し果てさせ給ふべうも候ふらん
  8. `と遊ばされたりければ主上この御返事を龍顔に押し当てさせ給ひて御涙塞き敢へさせ給はず
  1. `君は舟臣は水
  2. `水よく舟を浮かべ水また舟を覆し臣よく君を保ち臣また君を覆す
  3. `保元平治の比は入道相国君を保ち奉るといへども安元治承の今はまた君を蔑し奉る
  4. `史書の文に違はず
  1. `大宮大相国三条内大臣葉室大納言中山中納言も失せられぬ
  2. `今は古き人とては成頼親範ばかりなり
  3. `この人々も
  4. `かからん世には朝に仕へ身を立て大中納言を経ても何かはせん
  5. `とて未だ盛んなつ人々の家を出で世を遁れ民部卿入道親範は大原の霜に伴ひ宰相入道成頼は高野の霧に交はつて一向後世菩提の外は他事なし
  6. `昔も商山の雲に隠れ頴川の月に心を澄ます人もありけんなればこれ豈博覧清察にして世を遁れたるにあらずや
  1. `中にも高野におはしける宰相入道成頼この由を伝へ聞き給ひて
  2. `あはれ心疾くも世を遁れたるものかな
  3. `かくて聞くも同じ事なれども目の当たり立ち交はつて見ましかばいかに心憂からん
  4. `保元平治の乱をこそあさましと思ひつるに世末になればかかる不思議も出で来にけり
  5. `この後天下にいかばかりの事か出で来んずらん雲を分けても登り山を隔てても入りなばや
  6. `とぞ宣ひける
  7. `げに心あらんほどの人の跡を留むべき世とも覚えず
  1. `同じき二十三日天台座主覚快法親王頻りに御辞退ありしかば前座主明雲大僧正還着し給ふ
  2. `入道相国かく散々にし散らされたりしかども中宮と申すも御娘関白殿と申すもまた聟なりければよろづ心安くや思はれけん
  3. `政務は一向主上の御計らひたるべし
  4. `とて福原へぞ下られける
  1. `前右大将宗盛卿急ぎ参内してこの由奏聞せられければ主上は
  2. `法皇の譲りましましたる世ならばこそ
  3. `ただ執柄に云ひ合はせて宗盛ともかうもよきやうに相計らへ
  4. `とて聞し召しも入れざりけり
  1. `法皇は城南の離宮にして冬も半ば過ごさせ給へば射山の嵐の音のみ烈しくて寒庭の月の光ぞさやけき
  2. `庭には雪降り積れども跡踏み付くる人もなく池には氷柱閉ぢ重ねて群れ居し鳥も見えざりけり
  3. `大寺の鐘の声遺愛寺の聞きを驚かし西山の雪の色香炉峰の望みを催す
  4. `夜霜に寒けき砧の響き幽かに御枕に伝ひ暁氷を輾る車の跡遥かの門前に横はれり
  5. `巷を過ぐる行人征馬の忙はしげなる気色憂き世を渡る有様も思し召し知られて哀れなり
  6. `宮門を守る蛮夷の夜昼警衛を勤むるも先の世のいかなる契りにて今縁を結ぶらん
  7. `と仰せなりけるぞ忝き
  8. `すべて物に触れ事に随つて御心を傷ましめずといふ事なし
  9. `さるままにはかの折々の御遊覧処々の御参詣御賀のめでたかりし事共思し召し続けて懐旧の御涙押さへ難し
  1. `年去り年来たつて治承も四年になりにけり