一八(五〇)法皇被流

原文

  1. `同じき十一月二十日法住寺殿をば軍兵四面をうち囲む
  2. `平治に信頼が三条殿をしたりしやうに御所に火を懸け人をば皆焼き滅ぼすべき由聞えしかば局の女房女童物をだにうち被かずして我先に我先にとぞ逃げ出ける
  3. `前右大将宗盛卿御車を寄せて
  4. `疾う疾う
  5. `と申されければ法皇叡慮を驚かさせおはしまし
  6. `成親俊寛等がやうに遠き国遥かの島へも遷し遣らんずるにこそ
  7. `更に御咎あるべしとも思し召さず
  8. `主上さて渡らせ給へば政務の口入するばかりなり
  9. `それもさらずば自今以後さらでこそあらめ
  10. `と仰せければ宗盛卿申されけるは
  11. `その儀では候はず
  12. `暫く世を鎮めんほど鳥羽の北殿へ御幸を成し参らせよ
  13. `と父の禅門申し候ふ
  14. `と申されたりければ
  15. `さらば宗盛やがて御供仕れ
  16. `と仰せけれども父の禅門の気色に恐れをなして御供には参らず
  17. `あはれこれにつけても兄の内府には殊の外に劣りたるものかな
  18. `一年もかかる御目に逢ふべかりしを内府が身に代へて制し止めてこそ今日までも御心安かりつれ
  19. `今は諫むる者のなきとてかやうに振舞ふにこそあるなれ
  20. `行末とても頼もしからず
  21. `と思し召すとて御涙塞き敢へさせ給はず
  1. `さて御車に召されけり
  2. `公卿殿上人一人も供奉せられず
  3. `さては金行といふ御力者ばかりなり
  4. `御車の尻には尼前一人参られけり
  5. `この尼前と申すは法皇の御乳の人紀伊二位の御事なり
  1. `七条を西へ朱雀を南へ御幸成し奉る
  2. `あはや法皇の流されさせおはしますぞや
  3. `とて心なき怪しの賤の男賤の女に至るまで皆涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり
  4. `去ぬる七日の夜の大地震もかかるべかりける前表にて十六洛叉の底までも応へ堅牢地神の驚き騒ぎ給ふらんも理かな
  5. `とぞ人申しける
  1. `さて鳥羽殿へ御幸成つて後御前に人一人も候はず大膳大夫信成がただ一人何として紛れ入りたりけん御前近う候ひけるを召して
  2. `我は近う失はれんずると思し召すぞ
  3. `御行水を召さばやと思し召すはいかに
  4. `と仰せければさらぬだに信成は今朝より肝魂も身に添はずあきれたる様にて候ひけるがこの仰せ承る事の忝さに狩衣に玉襷上げ釜に水汲み入れ小柴垣壊ち大床の束柱割りなどして形の如く御湯し出だいて奉る
  1. `また静憲法印入道相国の西八条の亭に行き向かひて
  2. `昨夜法皇の鳥羽殿へ御幸成つて候ふなるに御前に人一人も候はぬ由承つてあまりにあさましく覚え候ふ
  3. `何か苦しう候ふべき静憲ばかり御許されを蒙つ参りて候はばや
  4. `と申されければ入道相国いかが思はれけん
  5. `御房は事誤つまじき人なり
  6. `疾う疾う
  7. `とて許されけり
  1. `法印斜めならずに喜び急ぎ鳥羽殿へ参り門前にて車より下り門の内へ差し入り給ふに折しも法皇は御経をうち上げうち上げ遊ばされける
  2. `御声の殊に凄うぞ聞えさせおはします
  3. `法印のつつと参られたれば遊ばされける御経に御涙のはらはらとかからせ給ふを見参らせて法印あまりの悲しさに裘代の袖を顔に押し当て泣く泣く御前へぞ参られける
  1. `御前には尼前ばかりぞ候はれける
  2. `やや法印の御房君は昨日の朝法住寺殿にて供御聞し召して後は昨夜も今朝も聞し召さず長き夜すがら御寝もならず御命も既に危ふうこそ見えさせおはしませ
  3. `と申されければ法印涙を押さへて申されけるは
  4. `何事も限りある事でこそ候へば平家世を取つて二十余年
  5. `されども悪行法に過ぎて既に滅び候ひなんず
  6. `されば天照大神正八幡宮も君をばいかでか思し召し放たせ給ふべき
  7. `中にも君の御頼みまします日吉山王七社一乗守護の御誓未だ改まらずばかの法華八軸に立ち翔けつてこそ君をば守り参させ給ふらめ
  8. `されば政務は君の御代となり凶徒は水の泡と消え失せ候ひなんず
  9. `と申されければ法皇この詞に少し慰ませおはします
  1. `主上は関白の流され給ひ臣下の多く滅び損ずる事をこそ御嘆きありつるに今また法皇の鳥羽殿へ御幸成ぬる由聞し召してつやつや供御も聞し召さず御悩とて常は夜の御殿にのみ入らせおはします
  2. `御前に候はせ給ふ女房達后の宮を始め参らせていかなるべしとも思し召さず
  3. `法皇の鳥羽殿へ御幸成つて後内裏には臨時の御神事とて清涼殿の石灰壇にて主上夜毎に伊勢大神宮をぞ御拝ありける
  4. `これは一向法皇の御祈の為とぞ聞えし
  1. `二条院はさばかりの賢王にて渡らせ給ひしかども
  2. `天子に父母なし
  3. `とて常は院の仰せをも申し返させおはしましければにや継体の君にてもましまさず
  4. `されば御譲を受けさせ給ひたりし六条院も安元二年七月十四日御年十三にてつひに崩れさせ給ひぬ
  5. `あさましかりし事共なり