一七(四九)行隆沙汰

原文

  1. `前関白松殿の侍に江大夫判官遠成といふ者あり
  2. `これも平家に心よからざりければ
  3. `六波羅より搦め捕らるべし
  4. `と聞えしほどに子息江左衛門尉家成うち具して南を指して落ち行きけるが稲荷山にうち上がり馬より下りて父子云ひ合はせけるは
  5. `抑もこれより東国の方へ落ち下り流人前兵衛佐頼朝を頼まばやとは思へどもそれも当時は勅勘の身にて身一つだにも叶ひ難うおはすなり
  6. `その外日本国に平家の庄園ならぬ所やある
  7. `年来住み馴れし所を人に見せんも恥がましかるべし
  8. `これより取つて返し六波羅より召しの使あらば館に火を懸け焼き上げ腹掻き切つて死なんには如かじ
  9. `とてまた河原坂の宿所へ取つて返す
  1. `案の如く源大夫判官季貞摂津判官盛澄直甲三百余騎河原坂の宿所へ押し寄せて鬨をどつとぞ作りける
  2. `源大夫判官縁に立ち出で大音声を揚げて
  3. `いかに各六波羅ではこのやうを申させ給へ
  4. `とて館に火を懸け焼き上げ父子共に腹掻き切つて焔の中にて焼け死にぬ
  1. `抑もかやうに人の滅び損ずる事をいかにと云ふに前大殿の御子三位中将殿と当時関白に成らせ給ふ二位中将殿と中納言御相論故とぞ聞えし
  2. `さらば関白殿御一所ばかりこそいかなる御目にも逢はせ給ふべきに四十余人の人々の事に逢ふべきやは
  3. `凡そはこれにも限るまじかんなれども
  4. `入道相国の心に天魔入り替はつてよろづ腹に据ゑかね給ふべき
  5. `由聞えしかば京中また騒ぎ合へり
  6. `去年讃岐院御追号ありて崇徳天皇と号し宇治悪左府贈官贈位行はれたりといへども世間はなほも静かならず
  1. `その比前左少弁行隆卿と聞えしは故中山中納言顕時卿の長男なり
  2. `二条院の御時には弁官に加はつてさしもゆゆしううおはせしか
  3. `この十余年は官を停められて夏冬の更衣にも及ばず朝暮のも稀なり
  4. `有るか無きかの体にておはしけるを入道相国使者を以て
  5. `きつと立ち寄り給へ
  6. `申すべき事あり
  7. `と宣ひ遣はされたりければ行隆
  8. `この十余年は官も停められて何事にも交はらざりつるものをいかさまにも讒言して失はんとする者のあるにこそ
  9. `とて大きに恐れ騒がれけり
  10. `北方以下女房達声々に喚き叫び給ひけり
  1. `さるほどに西八条殿より使頻並みにありしかば行隆
  2. `出向かひてこそともかうも成らめ
  3. `とて人に車借りて出でられたれば思ふには似ず入道やがて出会ひ対面ありて
  4. `御辺の父卿は入道大小事を申し合はせし人なり
  5. `その縁でおはすれば御辺とても全くおろそかに思ひ奉らず
  6. `年来籠居の事も労しう覚ゆれども法皇の御政務の上は力及ばず
  7. `今は出仕し給へ
  8. `官途の事も申し沙汰仕り候はん
  9. `さらば疾う帰られよ
  10. `とて帰されたれば宿所には女房達死にたる人の生き返りたる心地して喜び泣きをぞせられける
  1. `その後源大夫判官季貞を以て知行し給ふべき庄園状共数多遣はさる
  2. `出仕の料にとて雑色牛飼牛車清げに沙汰して遣はさる
  3. `まづさこそおはすらんとて百疋百両に米を積んで送られたりければ行隆手の舞ひ足の踏むとも覚え給はず
  4. `こは夢やらん
  5. `とぞ驚かれける
  1. `同じき十七日五位の侍中に補せられて元の如く左少弁に為し返さる
  2. `今年五十一今更若やぎ給ひけり
  3. `ただ片時の栄花とぞ見えし