一五(四七)法印問答

原文

  1. `入道相国小松殿に後れ給ひぬ
  2. `よろづ心細くや思はれけん福原へ馳せ下り閉門してこそおはしけれ
  1. `同じき十一月七日の夜戌の刻ばかり大地夥しう動いてやや久し
  2. `陰陽頭安倍泰親急ぎ内裏へ馳せ参り
  3. `今夜の地震占文の指すところその慎しみ軽からず候ふ
  4. `当道三経の中に坤儀経の説を見候ふに年を得ては年を出ず月を得ては月を出ず日を得ては日を出ず
  5. `以ての外に火急に候ふ
  6. `とて涙をはらはらとぞ流しければ伝奏の人も色を失ひ君も叡慮を驚かさせおはします
  7. `若き公卿殿上人は
  8. `何条事のあるべき
  9. `横に怪しからぬ泰親の只今の泣きやうかな
  10. `とぞ笑ひ合はれける
  1. `されどもこの泰親は晴明五代の苗裔を受けて天文は渕源を窮め推条掌を指すが如し
  2. `一事も違へざりければ
  3. `さすの神子
  4. `とぞ申しける
  5. `雷の落ちかかりたりしかども雷火の為に狩衣の袖は焼けながらその身は恙もなかりけり
  6. `上代にも末代にも有難かりし泰親なり
  1. `同じき十四日入道相国いかが思ひなられたりけん数千騎の軍兵を棚引いて都へ帰り入り給ふ由聞えしかば京中何と聞き分けたる事はなけれども上下騒ぎ合へり
  2. `また何者の申し出だしたりけるやらん
  3. `入道相国朝家を恨み奉るべし
  4. `といふ披露をなす
  5. `関白殿内々聞し召さるる旨もやありけん急ぎ御参内あつて
  6. `今度入道の入洛は偏に基房滅ぼすべき由の結構にて候へ
  7. `つひにいかなる憂き目にか逢ひ候はんずらん
  8. `と奏せさせ給へば主上聞し召して
  9. `其処にいかなる目にも逢はんは偏に我が逢ふにてこそあらんずらめ
  10. `とて龍顔より御涙を流させ給ふぞ忝き
  11. `まことに天下の御政は主上摂の御計らひにてこそあるにこはいかにしつる事共ぞや
  12. `天照大神春日大明神の神慮のほども量り難し
  1. `同じき十五日
  2. `入道相国朝家を恨み奉るべき事必定
  3. `と聞えしかば法皇大きに驚かせ給ひて故少納言信西の子息静憲法印を御使にて入道相国の許へ遣はさる
  4. `仰せ下されけるは
  5. `近年朝廷静かならずして人の心も調ほらず世間も未だ落居せぬ様になりゆく事を惣別につけて嘆き思し召せどもさて其処にあれば万事は頼み思し召してこそあるに天下を鎮むるまでこそなからめ嗷々なる体にて剰へ朝家を恨むべしなど聞し召すは何事ぞ
  6. `と仰せ下さる
  1. `法印勅諚の趣承つて西八条の亭に行き向かふ
  2. `朝より夕べに及ぶまで待たれけれども無音なりければ
  3. `さればこそ
  4. `と無益に思ひ源大夫判官季貞を以て勅諚の趣云ひ入れさせ
  5. `暇申して
  6. `とて出でられければその時入道
  7. `法印呼べ
  8. `とて出だされたり
  1. `喚び返して
  2. `やや法印の御房浄海が申すところは僻事か
  3. `まづ内府が身罷りぬる事当家の運命を測るにも入道随分悲涙を押さへてこそ罷り過ぎ候ひしか
  4. `御辺の心にも推察し給へ
  5. `保元以後は乱逆うち続いて君安い御心もましまさざりしに入道はただ大方を執り行ふばかりでこそ候へ
  6. `内府こそ手を下ろし身を砕いて度々の逆鱗をば静め参らせて候ひしか
  7. `その外臨時の御大事朝夕の政務内府ほどの功臣は有難うこそ候ふらめ
  1. `ここを以て古を案ずるに唐の太宗は魏徴に後れて悲しみのあまりに
  2. `昔の殷宗は夢の内に良弼を得今の朕は覚めての後賢臣を失ふ
  3. `といふ碑文を自ら書いて廟に立てだにこそ悲しみ給ひけるなれ
  1. `我が朝にも間近う見候ひし事ぞかし
  2. `顕頼民部卿が逝去したりしをば故院殊に御嘆きありて八幡の行幸延引あつて御遊なかりき
  3. `すべて臣下の卒するをば代々の御門皆御嘆きある事でこそ候へ
  4. `されば
  5. `親よりも懐かしう子よりも睦まじきは君と臣との御仲
  6. `とは申す事でこそ候ふらめ
  1. `それに内府が中陰に八幡の御幸あつて御遊ありき
  2. `御嘆きの色一事もこれを見ず
  3. `たとひ内府が忠をこそ思し召し忘れさせ給ふともなどか入道が悲しみをば御憐れみなくては候ふべき
  4. `父子とも叡慮に背き申す事今に於いて面目を失ふ
  5. `これ一つ
  1. `次に越前国をば子々孫々まで御変改あるまじき由御約束候ひて下し給はつて候ひしかども内府に後れて後やがて召し返され候ふは何の過怠にて候ふやらん
  2. `これ一つ
  1. `次に中納言欠の候ひし時二位中将頻りに所望候ひしを入道随分執り申ししかどもつひに御承引なくして関白の息をなさるる事はいかに
  2. `たとひ入道いかなる非拠を申し行ふとも一度はなどか聞し召し入れざるべき
  3. `申し候はんや家嫡といひ位階といひ理運左右に及ばぬ事を引き違へさせ給ふ御事はあまりに本意なき御計らひとこそ存じ候へ
  4. `これ一つ
  1. `次に新大納言成親卿以下近習の人々鹿谷に寄り合ひて謀反を企てし事も全く私の計略にはあらず併し君御許容あるによつてなり
  2. `事新しき申し事にて候へどもこの一門をば七代まではいかでか思し召し捨てさせ給ふべきにそれに入道七旬に及んで余命幾ばくならぬ一期の内にだにもややもすれば滅ぼすべき由の御結構候ふ
  3. `申し候はんや子孫相続いて朝家に召し使はれん事有難うこそ候へ
  4. `凡そ老いて子を失ふは枯れ木の枝なきに異ならず
  5. `今はほどなき憂き世に心を費やしても何かはせんなればいかでもありなんと思ひなつて候へ
  6. `とて且つは腹立し且つは落涙し給へば法印恐ろしうもまた哀れにも覚えて汗水にこそなられけれ
  1. `その時はいかなる人も一詞の返事には及び難き事ぞかし
  2. `その上我が身も近習の仁にて鹿谷に寄り合ひし事を正しう見聞かれしかば
  3. `只今もその人数とて召しや籠められんずらん
  4. `と思はれければ龍の鬚を撫で虎の尾を踏む心地はせられけれども法印もさる恐ろしき人にてちつとも騒がず申されけるは
  1. `まことに度々の御奉公浅からず候ふ
  2. `一旦御恨み申させまします旨その謂れ候ふ
  3. `但し官位といひ俸禄といひ御身にとつては悉く満足す
  4. `されば功の莫大なる事を君御感あるでこそ候へ
  5. `然るに
  6. `近臣事を乱り君御許容あり
  7. `と申す事は謀臣の凶害にてぞ候はんずらん
  8. `耳を信じて目を疑ふは俗の常の弊なり
  9. `小人の浮言を重くして朝恩の他に異なるに今更また君を傾き参らせ給はん事冥顕につけてもその恐れ少なからず候ふ
  10. `凡そ天心は蒼々として測り難し叡慮定めてその儀でぞ候はんずらん
  11. `下として上に逆ふる事は豈人臣の礼たらんや
  12. `よくよく御思惟候ふべし
  13. `詮ずるところこの趣をこそ披露仕り候はめ
  14. `とて立たれければその座に並み居たる人々
  15. `あな恐ろし
  16. `入道のあれほど怒り給ふにちつとも騒がず返事うちして立たれけるよ
  17. `とて法印を褒めぬ人こそなかりけれ