巻第九 第十二 武勇 四 第三三六段 を読み解く

原文と現代語訳

  1. 伊予守源頼義朝臣貞任宗任等をせむる間陸奥に十二年の春秋を送りけり
  2. 鎮守府をたちて秋田の城にうつりけるに雪ふりて軍のをのこどもの鎧皆白妙になりにけり
  1. 伊予守源頼義安倍貞任宗任等を攻める間陸奥国に十二年の歳月を送った
  2. 鎮守府を発って秋田の城に移ったが雪降って軍の兵共の鎧みな真っ白になった
  1. 衣川の館岸高く川ありければ楯をいただきて冑にかさね筏をくみて攻め戦ふに貞任等堪へずして遂に城の後よりのがれ落ちける一男八幡太郎義家衣川に追ひたて攻めふせて
  2. きたなくも後をば見するものかな
  3. しばし引きかへせ
  4. 物いはん
  5. といはれたりければ貞任見かへりたりけるに
  6. 衣のたてはほころびにけり
  7. といへりけり
  8. 貞任くつばみをやすらへをふりむけて
  9. 年をへし糸のみだれのくるしさに
  10. とつけたりけり
  11. その時義家はげたる箭をさしはづして帰りにけり
  1. 衣川の館岸高く川あるために盾を頭に乗せて兜に重ね筏を組んで攻め戦えば貞任ら堪えきれずして遂に城の後方から逃れ落ちた嫡男八幡太郎義家衣川に追いたて攻め伏せて
  2. 卑怯にも背中を見せるのか
  3. しばし引き返せ
  4. 話がある
  5. と言われたところ貞任見返ったところで
  6. 衣のたてはほころびにけり
  7. と言ったという
  8. 貞任を緩めを振り向けて
  9. 年をへし糸のみだれのくるしさに
  10. と付けた
  11. その時義家げた矢をさし外して帰っていった
  1. さばかりのたたかひの中にやさしかりける事かな
  1. これほどの戦の最中にやさしいことよ

読解

鎮守府将軍源頼義の嫡男八幡太郎義家と奥州の豪族安倍頼時の次男厨川次郎貞任とのこのやりとりは永承六年(一〇五一年)から康平五年(一〇六二年)まで繰り広げられた前九年の役(奥州十二年合戦)の名場面のひとつとして知られています。わが国の武士道精神を英語で記して世界に知らしめた五千円札でおなじみ新渡戸稲造は衣川における義家の振舞いをその書武士道の中で次のように述べています。

Bushido The Soul Of Japan(抜粋)

  1. Of such character was the battle fought on the banks of the Koromo River, late in the eleventh century.
  2. The eastern army routed, its leader, Sadato, took to flight.
  3. When the pursuing general pressed him hard and called aloud,
  4. It is a disgrace for a warrior to show his back to the enemy,
  5. Sadato reined his horse; upon this the conquering chief shouted an impromptu verse:
  6. Torn into shreds is the warp of the cloth (koromo).
  7. Scarcely had the words escaped his lips when the defeated warrior, undismayed, completed the couplet:
  8. Since age has worn its threads by use.
  9. Yoshiie, whose bow had all the while been bent, suddenly unstrung it and turned away, leaving his prospective victim to do as he pleased.
  1. When asked the reason of his strange behaviour, he replied that he could not bear to put to shame one who had kept his presence of mind while hotly pursued by his enemy.
  2. The sorrow which overtook Antony and Octavius at the death of Brutus, has been the general experience of brave men.
The Project Gutenberg eBook of Bushido, by Inazo Nitobé, A.M., Ph.D..
  1. (前略)十一世紀末の衣川における合戦はこのような性格のものであった
  2. 東国の軍勢は敗走し、その頭領・貞任は飛んで逃げた
  3. それを追う将軍が彼に迫ったとき、声高らかにこう呼びかけた
  4. 卑怯にも武者が敵に背中を見せるのか
  5. 貞任は手綱を引いたので、勝利を得た将軍は歌を大音声で偶詠した
  6. 衣の縦糸は綻んでしまったぞ(衣のたてはほころびにけり)
  7. その句が彼の唇から消えるか否かのうちに、敗れた武者は、思いがけず、こう歌を結んだ
  8. その糸は着古されたものである故に(年をへし糸のみだれのくるしさに)
  9. 弓を引き絞っていた義家は、それを矢庭に弛めて背を向けると、捕らえかけの餌食の逃れるに任せた
  1. その奇妙な振舞いの理由を尋ねられたとき、彼は、敵に激しく追われながらも落ち着いて振舞う者を辱めるのは忍びなかった、と答えた
  2. ブルータスの死を悼むアントニウスとオクタヴィウスの心境というのは、勇者たちが概ね持っている経験である

武士道ではさんざんな言われようの貞任ですが、橘成季は本段でどう述べているのか読み解いてみることにします。それにはまず押さえておくべき点がいくつかあります。

一 頼義が秋田の城に移ったこと

頼義はこのとき衣川(岩手県奥州市)にいなかったことがわかります。それより五里ほど北の胆沢城に鎮守府はありました。安倍貞任宗任等をせむる間とは二人の父安倍頼時の存命中は一触即発ながら無戦状態ではあったことから彼が殺害された後すなわち天喜五年(一〇五七年)の夏以降ということになります。鎮守府勢は同年秋に貞任勢と交えた黄海の合戦で大敗を喫して出羽国仙北(秋田県中南部)の豪族清原氏に加勢を頼み込んでいます。秋田の城にうつりけるにとはなんとも事も無げな表現ですが、命冥加の退却です。したがって衣川におけるこの状況は義家部隊の逃げ遅れともいえる懸軍、鎧を纏っていることからも軍のをのこは彼の兵を指しているものと考えられます。

二 館は高い岸のある川縁に位置していること

京よりはるかに寒い陸奥の冬、義家の兵は雪降る川の中にいます。確実に濡れ鼠。しかも波にたゆたい雪に滑る筏の上では足場はおぼつかず、盾を頭に乗せて兜に重ねるなどすれば手も塞がるでしょう。これでまともな戦などできるでしょうか。ここは彼らがどうしてそんな格好をしているのか考える必要があります。

三 やりとりが川の付近で行われていること

くつばみとはすなわち手綱を付けるために馬の口に咬ませる金具のこと、とはすなわち兜に付いている首回りを保護する傘形の垂れのことで、これらから貞任らが騎兵の装いで衣川へと向かったことがわかります。鎮守府軍本隊を窮地に陥れて勢いづく地形も熟知している地元の将たちが、追いたてられて、川とは別方向の城の後から出ながら敵兵も蠢く行き止まりの場所へなど逃げるものでしょうか。

四 のがれ落ちけるは連体形であること

貞任等堪へずして遂に城の後よりのがれ落ちける一男八幡太郎義家衣川に追ひたて攻めふせて
〔一〕貞任等堪へずして遂に城の後よりのがれ落ちける。一男八幡太郎義家衣川に追ひたて攻めふせて
〔二〕貞任等、堪へずして遂に城の後よりのがれ落ちける一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻めふせて

終止形ならばのがれ落ちにけりあるいはのがれ落ちたりけりとなるところでしょう。ここまでの三つも考慮に入れ、助詞を適宜補って読んで〔一〕の解釈になるでしょうか。

五 歌の前句にはいへりけり(言ったという)と伝聞表現が用いられていること

このことから歌はすべて貞任が詠んでいたことがわかります。仮に義家が前句を付けていたとして、合戦は十二年もの長きにわたるうえに将軍たる父頼義も退くさなか敵の御大将討ち取らば大金星という瞬間を目前にいかに歌の上手が時めく世とはいえこんなところで仏心を出してむざむざ見逃すでしょうか。当時の彼への月旦評からしてもしかり。奥州後三年記には続く後三年の役において本役の危機の際貞任軍討伐に助太刀した清原武則の孫家衡一族に対して兵糧攻めを促すべく落ち延びる愛妻愛子らを彼らの眼前で皆殺しにしたり、合戦中義家に罵詈を浴びせた者の歯を突き破って舌を切ったり主の首を踏ませたりするなどの残忍な仕打の様子が描かれています。古事談には義家の邸の向かいに住む女房が夢に、地獄絵に描かれているような鬼形の者共が病臥の彼の家に乱入し「無間地獄之罪人源義家」という大札を持って彼を引きずり出した、と見るやその暁に彼が死んだという話が載っています。梁塵秘抄にはこんな歌が収められています。

鷲の住む山には なべての鳥は住むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや

梁塵秘抄

六 帰ったのは矢をさし外した者であること

追撃と遁走の中にあって己が意思で帰れるのは前者のみ。また水辺が行く手を阻めば退却は困難必至。帰るにしても貞任には城がありますが、自軍は凍みる川の中で激戦真っ只中な義家が大将も倒さずにどこへ帰るというのでしょうか。

ここで、これらを整理すると話は次のように読み解けます。筏の上の兵らが盾を兜の上に載せているのは頭上の館より降り注ぐ矢からの防御。川から攻めているのは陸戦叶わぬ義家の愚策。歌にあるたてとはではなく。歌の付句前句共に次の〔二〕ではなく〔三〕。

衣のたてはほころびにけり
〔一〕衣の縦は綻んでしまった
〔二〕貞任よ、衣川のは陥落したぞ
〔三〕義家よ、衣川のは崩壊したぞ
年をへし糸のみだれのくるしさに
〔一〕年を経た衣の糸の乱れの切れかけに
〔二〕年を経た自分(貞任)の軍の乱れの苦しさに
〔三〕年を経たお前(義家)の軍の乱れの苦しさに

「長年の戦いで義家おまえのか細い軍は乱れて苦しくて盾持つ兵共は崩れたぞ」と詠じていると読めます。つまり貞任らが衣川に向かったのは追いつめた義家軍を襲うため、「きたなくも後をば見するものかな しばし引きかへせ 物いはん」とは貞任の言葉、言われたのはむろん義家、物いはんその旨こそこの歌であり、義家の矧げた矢を貞任が馬上からさし外して帰っていった、ということです。本役は清原氏の加勢頼もしく康平五年(一〇六二年)の厨川の合戦で貞任は討たれ宗任は虜となり鎮守府軍が勝利して終結します。本段に鎮守府軍側からの視点がちらつくのは凱旋後の話に基づいて成季が(皮肉を込めて)記しているからでしょう。

この後義家は孫子を我が国に広めた大江匡房から「兵法を知らない」と言われ教えを乞うことになるわけですが、なるほど高陵には向かう勿れ絶地には留まる勿れ鋭卒を攻める勿れといったことを知らなかったようです。そんな義家の武士道精神に対して朝廷がどれほどの評価を下したかといえば本役の始終が記されている今昔物語集では首級を奉った者すら恩賞を賜っているのに除目に名前すら出てきません。

今昔物語集 本朝部 下 巻第廿五 源頼義朝臣討安陪貞任等語 第十三(抜粋)

  1. 其の後除目を
  2. 次に功を賞せられ頼義朝臣は正四位下に叙して出羽守に任ず
  3. 二郎義綱は左衛門尉に任ず
  4. 武則は従五位下に叙して鎮守府の将軍に任ず
  5. 首を奉る使藤原秀俊は左馬允に任ず
  6. 物部長頼は陸奥の大目に任ず
  7. の如く賞の新たなる事を見て世の人皆讃め喜びけりとなむ語り伝へたるとや
巧證 今昔物語集
  1. その後、除目を行われた
  2. その際、功を賞せられ、頼義朝臣は正四位下に叙して出羽守に任ず
  3. 二郎義綱は左衛門尉に任ず
  4. 武則は従五位下に叙して鎮守府の将軍に任ず
  5. 首を奉った使者・藤原秀俊は左馬允に任ず
  6. 物部長頼は陸奥の大目に任ず
  7. かくの如く賞が新たに行われたことを見て世の人は皆讃め喜んだ、と語り伝えられているという

畢竟、締め括りのやさしかりける事かなの一言は貞任が衣川に追ひたて攻めふせてその状況下で義家を逃してやったことを指すものであったということです。然るに義家が「敵に激しく追われながらも落ち着いて振舞う者を辱めるのは忍びなかった」なんぞとよくも述べられたものです。

武士道のこの解釈は本段や史実との乖離が甚だしい。衣川の古戦場に程近い南部盛岡の出である新渡戸稲造、いずれの書物を読み、いかにしてかの論に至りこの書に載せたのか、知りたいところです。