七八九信濃国筑摩の湯に観音沐浴の事
現代語訳
- `昔、信濃国の筑摩の湯という所に、たくさんの人々が浴びる薬湯があった
- `その近くに住む人が見た夢の中で
- `明日の午の刻に観音が湯浴みなさるだろう
- `と言う
- `どのようにしておいでになるのか
- `と問えば
- `年は三十ほどの男で、髭が黒く、綾藺笠を被り、節黒の胡録と革巻きの弓を持ち、紺の襖を着て、夏毛の行縢を履き、葦毛の馬に乗ってやってくる
- `それが観音であると知られよ
- `と言う、と見て目が覚めた
- `急いで起きて夜が明けてから人々に告げてまわれば、人々が聞き継ぎ、その湯に集まることこの上ない
- `湯を換え、辺りを掃除し、注連縄を張り、花や香を供え、集まって待った
- `そして午の刻も過ぎ、未の刻になろうとした頃、夢で見たのと少しも違うところなく見える男が現れたのだが、顔をはじめ、着ている物、馬、何から何まで夢に見たのと違わない
- `大勢の人はにわかに立ち、丁寧に辞儀をした
- `この男はおおいに驚き、わけがわからないので、大勢の人に尋ねたが、ひたすら拝むだけで誰もその理由を語らない
- `僧がいて、手を擦り額に当てて拝み入っているので、そばに寄り
- `これは何事ですか
- `私を見て、このように拝みなさるとは
- `と、少し訛った声で訊いた
- `この僧が人の夢に見えた内容を語れば、この男は
- `私は先頃、狩の最中に落馬し、右の腕を折ってしまったので湯治をしに参ったのです
- `と言って、あちこち行き来するたび、人々が後についてがやがや拝んでいる
- `男は困って
- `さては、自分は観音だったのか
- `そういうことなら法師になってしまえ
- `と思い、弓、胡録、太刀、刀を捨て去って法師になった
- `この光景を見て、大勢の人は泣いて感動した
- `そこに顔見知りの人が現れて
- `ああ、あれは上野国におられるばとうぬしでいらっしゃるよ
- `と言うのを聞き、この人の名を
- `馬頭観音
- `と呼んだ
- `法師になって後、比叡山の横川に上り、覚朝僧都の弟子になって横川に住んだ
- `その後は土佐国に行ったという