(八三)広貴妻の訴へに依りて閻魔王宮へ召さるる事

現代語訳

  1. `これも昔の話、藤原広貴という者がいた
  2. `死んで、閻魔の庁に召し出され、閻魔大王の御前と思しきところへ参ると、王が
  3. `おまえの子を孕み、産みそこねた女が死んだ
  4. `地獄に堕ちて、苦を受けているさなか、愁訴があるというので、おまえを呼んだ
  5. `まず、そうした事実はあるか
  6. `とお尋ねになったので、広貴は
  7. `はい、ございました
  8. `と述べた
  9. `王が
  10. `妻の訴えによれば
  11. `私は、男と連れ添い、共に罪をつくり、しかも、夫の子を産みそこね、死んで地獄に堕ち、このような耐え難い苦を受けておりますのに、夫は少しも私の後世を弔ってはくれません
  12. `ならば私一人が苦を受けるいわれはありません
  13. `広貴もお召しになり、同じように苦しみをお与えください
  14. `と申すので呼んだのだ
  15. `と仰せになったので、広貴が
  16. `この訴え、もっともでございます
  17. `公私において、生活を営む間、思いはしながらも、後世の弔いもせず、日々をむなしく過ごしております
  18. `しかし今、共に召されて苦を受けましても、妻の苦が解かれるわけではありません
  19. `それならば、この度はお許しいただき、娑婆に戻りまして、妻のためにすべてを捨てて、仏経を書き供養して弔います
  20. `と言うと、王は
  21. `しばし待て
  22. `と仰せになり、その妻を呼び出し、おまえの夫・広貴の言い分をお尋ねになると
  23. `たしかに経仏を書き供養しよう
  24. `と申しておりますので、すぐお許しください
  25. `と答えたので、また広貴を呼び出して、申すままのことをお聞かせになり
  26. `では、今回は帰ってよい
  27. `しかし必ず、妻のために、仏経を書き供養して弔うのだぞ
  28. `と、帰された
  1. `広貴は、そうはいうものの、ここがどこで、誰が言われたのかもわからない
  2. `許されて、座を立って帰る途中
  3. `この玉の簾の内においでになり、このようにものの沙汰をし、自分を帰された人はどなたなのか
  4. `と、とても気がかりになったので、再び参上し、庭にいると、簾の中から
  5. `広貴は、帰してやったのではなかったか
  6. `どうして、また参ったのか
  7. `と尋ねられたので、広貴は
  8. `思いがけなく御恩をこうむり、なかなか戻れぬ娑婆へお戻し下さるようなご沙汰を、どのような方が仰せられたのかも知らずに帰ってしまうことは、実に心が晴れず、残念に思われたので、おそれながら、それをお伺いしたく、再び参上したのです
  9. `と言うと
  10. `おまえは不覚者だ
  11. `閻浮提では、我を地蔵菩薩と言う
  12. `と仰せになるのを聞き
  13. `さては、閻魔大王というのは地蔵でいらしたのか
  14. `ではこの菩薩に仕えれば地獄の苦を免れることができよう
  15. `と思ううち、三日後に生き返り、その後、妻のために仏経を書き供養したという
  16. `大日本国法華経験記に記されているという