(四)夢応の鯉魚

現代語訳

  1. `昔、延長の頃
  2. `三井寺に興義という僧がいた
  3. `絵の巧みなことで世に名を知られていた
  4. `常に描くは
  5. `仏像・山水・花鳥のみならず
  6. `寺の仕事に暇のある日には湖に小舟を浮かべて
  7. `網引きや釣りをする漁夫に銭を与え
  8. `獲った魚をもとの江に放ち
  9. `その魚の躍り遊ぶを見ては描くうち
  10. `年を経て精妙になった
  11. `ある時絵に心を凝らして眠気を誘えば
  12. `夢の中で江に入り
  13. `大小の魚と共に戯れる
  14. `覚めればすぐさま見たままを描き壁に貼り
  15. `自ら呼んで夢応の鯉魚と名付けた
  16. `その絵の見事さに感じ入り欲しがる人たちが我を争えば
  17. `花鳥山水の絵は乞うにまかせて与えたが
  18. `鯉魚の絵は強く惜しんで
  19. `人々に戯れてこう言った
  20. `生を殺し新鮮なものを食う凡俗の人に
  21. `法師の養う魚を与えることはできない、と
  22. `その絵と言葉とともに天下に知れ渡った
  1. `ある年病にかかり
  2. `七日後にわかに目を閉じ
  3. `息絶えてしまった
  4. `徒弟や友人が集まって嘆き惜しんだが
  5. `ただ心臓の辺りがかすかに暖かい
  6. `もしやと思い囲み居て見守れば三日の後に
  7. `手足が少し動いたようであったが
  8. `たちまち溜息を吐いて眼を開き
  9. `醒めたがごとくに起き上がり、人々に向かって
  10. `私は意識を失って久しい
  11. `幾日を過ごしたのか
  12. `弟子達は言う
  13. `師は三日前に息を引き取られました
  14. `寺中の人々をはじめ
  15. `日頃親しく語られた方々もお出でになって
  16. `葬儀の準備もされましたが
  17. `師の胸元が温かいのを見て
  18. `棺にも納めずこのように見守っておりますと
  19. `蘇生なさって
  20. `よくぞ葬らなかったと喜び合っていたのです
  21. `興義はうなずいて
  22. `誰でもよいから一人
  23. `檀家の平の助の殿の館に出向いてこう伝えてもらいたい
  24. `法師は不思議にも生きておいでです
  25. `貴方様は今酒を酌み、新鮮な鱠を造らせておいでのようですが
  26. `しばらく宴を止めて寺にお越しください
  27. `不思議な話をお聞かせします、とな
  28. `そして人々の様子を見てまいれ
  29. `我が言葉に少しも違うまい、と言う
  1. `使者は訝しみながらその館に行って
  2. `その由を伝えて、入って窺い見れば
  3. `主の助をはじめ
  4. `弟の十郎
  5. `下男の掃守などが座を囲んで酒を酌み交わしていたので
  6. `師の言葉と違わないのが不思議であった
  7. `助の館の人々がこのことを聞いてひどく奇妙に思い
  8. `まず箸を止めて
  9. `十郎と掃守を連れて寺を訪れた
  10. `興義は頭を起こし、来てくれたことに感謝をすると
  11. `助も蘇生の祝いを述べた
  12. `興義がまず尋ねた
  13. `どうか私の話をお聞きください
  14. `かの漁夫・文四に魚を造らせたことがありますね
  15. `助は驚いて
  16. `たしかにありました
  17. `どうしてご存じなのですか
  18. `興義
  19. `あの漁夫は三尺ほどの魚を籠に入れて貴殿の館に行きました
  20. `あなたは弟君と南面の所で碁を囲んでおられます
  21. `掃守が傍らにおり
  22. `大きな桃の実を食べながら碁の手を見ています
  23. `漁夫が大きな魚を運んで来るのを喜んで高杯に盛った桃を与え
  24. `また杯を与えて三献飲ませました
  25. `料理人は得意顔で魚を取り出して鱠にしたところまで
  26. `私が語ることに相違はございますまい、と言うので
  27. `助の所の人々はこのことを聞いて
  28. `ある者は不思議に思い、ある者は心惑わせて
  29. `これほど詳しく語る理由をしきりに尋ねると
  30. `興義はこう語った
  1. `私はこの頃病に苦しんで耐え難いあまり
  2. `死んだことにも気づかず
  3. `熱い心地を少し冷まそうと
  4. `杖に寄りかかりながら門を出れば
  5. `病もずいぶん忘れたようで籠の鳥が雲間に帰る心地がしました
  6. `山となく里となく行き行きて
  7. `再び江のほとりに出
  8. `碧の湖水を見てからは
  9. `夢心地に浴びて遊ぼうと
  10. `そこに衣を脱ぎ去り
  11. `身を躍らせて深みに飛び込み
  12. `あちらこちらと泳ぎ回れば
  13. `幼い頃より水に親しんだわけではないのですが
  14. `思いのままに戯れました
  1. `今思えば愚かなる夢心でした
  2. `人が水に浮くのは魚が快く泳ぐのには及びません
  3. `ここでまた魚の遊ぶのを羨む気持ちが起こったのです
  4. `そばから一尾の大魚がいて言いました
  5. `師の願いはいともたやすいことです
  6. `お待ちください、と
  7. `そして遥かな底へ去ったと見るや
  8. `しばらくして冠装束を着た人が
  9. `さっきの大魚に跨り
  10. `数多の魚どもを率いて浮かんできて
  11. `私に向かって言いました
  12. `海神のお告げがあった
  13. `貴僧は以前から放生の功徳をたくさん積んでいる
  14. `今、江に入り魚と戯れてもらいたい
  15. `権利として金鯉の服を授けて水府の楽しみをお与えくださる
  16. `ただ餌の香ばしさに眩まされて釣り糸にかかり
  17. `身を滅ぼさぬように、と言って去ると見えなくなりました
  1. `不思議のあまりに我が身を振り返って見れば
  2. `いつの間にやら金色の鱗をまとって
  3. `一尾の鯉と化していました
  4. `奇妙にも思わず
  5. `尾を振り鰭を動かして心のままに泳ぎ回りました
  6. `まず長等の山颪に
  7. `立つ波に身を乗せて
  8. `志賀の大湾の水際で遊べば
  9. `道行く人が衣の裾を濡らして行き交うのに驚かされて
  10. `比良の高山の影映る
  11. `深い水底に潜ろうとすれども
  12. `かくれ堅田の漁り火に夢うつつに引き寄せられれば
  13. `真っ暗な夜中の水面に映る月は
  14. `鏡の山の峰に澄み渡り
  15. `数多の湊は隈もなく美しく
  16. `沖津島山
  17. `竹生島
  18. `波に映る朱の垣には驚かされて
  19. `伊吹の山風に
  20. `朝妻の渡舟も漕ぎ出れば
  21. `葦の間に見ていた夢を覚まされて
  22. `矢橋の渡し守の櫂を逃れては
  23. `瀬田の橋守に何度も追いかけられました
  24. `日が暖かいときには浮かび
  25. `風の荒い時には千尋の水底に遊んだのです
  26. `急に飢えて食べ物が欲しくなったのですが
  27. `あちこち漁っても得られず狂おしくなっていると
  28. `忽ち文四が釣り糸を垂れているところに会いました
  29. `その餌は実に香ばしいのです
  30. `心に河の神の戒めを守って思うに
  31. `私は仏の御弟子である
  32. `しばし食を得られぬからとて
  33. `どうしてあさましく魚の餌を飲み込めよう、とそこを去りました
  34. `しばらくすると飢えはますますひどくなり
  35. `重ねて思うに
  36. `もう堪えられない
  37. `たとえこの餌を飲み込んだとして愚かしく捕られたりはしまい
  38. `もとより彼は見知っている者だから
  39. `何をはばかることもあるまい、と
  40. `ついに餌を飲んでしまいました
  1. `文四は素早く糸を手繰って私を捕らえました
  2. `どうするつもりだ、と叫びましたが
  3. `彼はいささかも聞こえない顔で
  4. `私を掴み縄で私の顎を貫き
  5. `芦の間に舟をつなぎ
  6. `私を籠に押し込んで貴殿の屋敷の門に入っていきました
  7. `貴殿は弟君と南面の間で碁を打って遊んでおいででした
  8. `掃守が傍らに控えて木の実を食べていました
  9. `文四が持ってきた大魚を見て人々は大いに感心なさいました
  10. `私はその時人々に向かって声を張り上げました
  11. `皆さんは興義をお忘れですか
  12. `お許し下さい
  13. `寺に帰してください、としきりに叫びましたが
  14. `人々は知らぬげに扱い
  15. `ただ手を叩いて喜ばれました
  16. `鱠の料理人は
  17. `まず私の両目を左手の指で強く押さえると
  18. `右手に研ぎ澄ました刃物をとってまな板に載せ
  19. `まさに切ろうとしたとき
  20. `私は苦しさのあまりに大声をあげて
  21. `仏弟子を害するものがありますか
  22. `私を助けてください、助けてください、と泣き叫びましたが聞き入れず
  23. `ついに切られる、と覚えて目が醒めたのです、と語った
  1. `人々はとても奇異に思い
  2. `師のお話について思うに
  3. `その度ごとに魚の口が動くのを見ましたが
  4. `まったく声を出すことはありませんでした
  5. `このようなことを目の当たりに見たことは大変不思議です、と
  6. `従者を屋敷に走らせて
  7. `残った鱠を湖に捨てさせた
  1. `興義はそれより病が癒えて遥か後に
  2. `天寿を全うして死んだ
  3. `その死に臨んで
  4. `描いた鯉魚数枚をとって湖に散らすと
  5. `描いた魚は紙を離れて水に泳ぎ戯れた
  6. `これを以て興義の絵は世に伝わらなかった
  7. `その弟子の成光という者が
  8. `興義の不思議な能力を伝えて当時名を知られた
  9. `閑院の殿の障子に鶏を描くと
  10. `生きている鶏がこの絵を見て蹴ったという話が
  11. `古い物語に載っている