一一昔の人

現代語訳

  1. `この女というのは、母一人・子一人の家であったが、嫁と姑との仲が悪くなり、嫁はしばしば郷里へ行って帰ってこないことがあった
  2. `その日は、嫁は家にいて寝込んでいたが、昼の頃になり、突然せがれが言うには、
  3. `ガガはとても生かしてはおかれぬ、今日はきっと殺してやる
  4. `と、大きな草刈鎌を取り出し、ごしごしと研ぎはじめた
  5. `その様子が少しも冗談に見えなかったので、母はさまざまに事を分けて詫びたが、少しも聞かない
  6. `嫁も起き出して泣きながら諫めたが、まったく従う気色もなく、やがて母が逃げ出そうとする様子があるのを見て、前後の戸口を全部閉ざしてしまった
  7. `便所に行きたい
  8. `と言えば、せがれは自分で外から便器を持ってきて
  9. `これにしろ
  10. `と言う
  1. `夕方にもなると、母もついにあきらめて、大きな囲炉裏のそばにうずくまり、ただ泣いていた
  2. `せがれは、よくよく研いだ大鎌を手にして近寄ってきて、まず左の肩口を目がけて薙ぎ払うように斬りかかれば、鎌の刃先が炉の上の火棚に引っかかってよく斬れなかった
  3. `その時に、母は深山の奥で弥之助が聞きつけたような叫び声をあげた
  4. `二度目には、右の肩から斬り下げたが、これでもなお死に絶えずにいたところへ、里人らが驚いて駆けつけ、せがれを取り押さえて、すぐ警察官を呼んで引き渡した
  5. `警官がまだ棒を持っている時代のことである
  6. `母親は、男が捕らえられ引き立てられて行くのを見て、滝のように血の流れる中から、
  7. `私は恨みも抱かずに死ぬから、孫四郎は堪忍してやってください
  8. `と言う
  9. `これを聞いて心を動かさぬ者はなかった
  1. `孫四郎は途中でもその鎌を振り上げて巡査を追い回しなどしたが、狂人だということで放免されて家に帰り、今も生きて里にいる

注釈

`ガガは方言で母という意味である