九六 前兆
原文
- `遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき
- `此男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾ひ、之を捻りてつくづくと見つめ又は之を嗅ぐことなり
- `人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何物にても眼の先きまで取り上げ、にこにことして折々之を嗅ぐなり
- `此男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾ひ上げて之をあたりの人家に打ち付け、けたたましく
- `火事だ火事だ
- `と叫ぶことあり
- `かくすれば其晩か次の日か物を投げ付けられたる家火を発せざることなし
- `同じこと幾度と無くあれば、後には其家々も注意して予防を為すと雖、終に火事を免れたる家は一軒も無しと云へり