九四 狐
原文
- `この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞はれたる残りの餅を懐に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに、象坪一の藤七と云ふ大酒呑にて彼と仲善の友に行き逢へり
- `そこは林の中なれど少しく芝原ある所なり
- `藤七はにこにことしてその芝原を指し、
- `ここで相撲を取らぬか
- `と云ふ
- `菊蔵之を諾し、二人草原にて暫く遊びしが、この藤七如何にも弱く軽く自由に抱へては投げらるる故、面白きままに三番まで取りたり
- `藤七が曰く、
- `今日はとてもかなはず、
- `さあ行くべし
- `とて別れたり
- `四五間も行きてのち心付きたるにかの餅見えず
- `相撲場に戻りて探したれど無し
- `始めて
- `狐ならんか
- `と思ひたれど、外聞を恥ぢて人にも言はざりしが、四五日の後酒屋にて藤七に逢ひ其話をせしに、
- `おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものを
- `と言ひて、愈狐と相撲を取りしこと露顕したり
- `されど菊蔵は猶他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休に人々酒を飲み狐の話をせしとき、
- `おれも実は
- `と此話を白状し、大に笑はれたり