原文
- `人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩して命の境に臨みし頃、ある日ふと菩提寺に訪ひ来れり
- `和尚鄭重にあしらい茶などすすめたり
- `世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣りしに、門を出でて家の方に向ひ、町の角を廻りて見えずなれり
- `其道にてこの人に逢ひたる人まだ外にもあり
- `誰にもよく挨拶して常の体なりしが、此晩に死去して勿論其時は外出などすべき様態にてはあらざりしなり
- `後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きし処を改めしに、畳の敷合せへ皆こぼしてありたり