一五(一七四)副将

原文

  1. `西国鎮まりて道の間も煩ひなく都も穏しかりければ
  2. `天下の人は皆判官に過ぎたるほどの人ぞなき
  3. `日本国はただ九郎判官のままにてあらばや
  4. `など云ふ事を鎌倉の源二位洩れ聞き給ひて
  5. `こはいかに
  6. `頼朝が然るべきやうに計らひてまづ討手を遣はしたればこそ平家は容易う滅びたれ
  7. `九郎ばかりではいかでか世をば鎮むべき
  8. `人しもこそ多けれ平大納言の聟に成つて大納言もて扱ふらんも受けられず
  9. `大納言また聟取り然るべからず
  10. `人のかく云ふに驕つていつしか世を我がままにしたるにこそあんなれ
  11. `これへ下つても定めて過分の振舞ひをせんずらん
  12. `とぞ宣ひける
  1. `さるほどに元暦二年五月七日九郎大夫判官義経大臣殿父子具足し奉つて関東へ下らるべき由聞えしかば大臣殿判官の許へ使者を立てて
  2. `明日関東へ下向の由その聞え候ふ
  3. `それにつきては生捕の中に八歳の童とつけられ参らせて候ふは未だ憂き世に候ふやらん
  4. `給はつて今一度見候はばや
  5. `と申されたりければ判官の返事に
  6. `誰とても恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候へばまことにさこそ思し召され候ふらめ
  7. `とて河越小太郎重房が許に預け置き奉つたりける若君を急ぎ大臣殿の許へ具足し奉るべき由宣ひ遣はされたりければ河越人に車借りて乗せ奉る
  8. `二人の女房共も共に乗りてぞ出でにける
  9. `若君は父を遥かに見参らせ給はねば世に懐かしげにてぞましましける
  10. `大臣殿若君を見給ひて
  11. `いかにや副将軍御前これへ
  12. `と宣へば急ぎ父の御膝の上へぞ参られける
  1. `大臣殿若君の髪掻き撫で涙をはらはらと流いて
  2. `これ聞き給へ各この子は母もなき者にてあるぞよ
  3. `この子が母はこれを生むとて産をば平らかにしたりしかどもやがて臥し悩みしが七日といふにはかなくなりてあるぞとよ
  4. `この後いかなる人の腹に君達を設け給ふともこれをば思し召し捨てずしてわらはが形見に御覧ぜよ
  5. `差し放つて乳母などの許へも遣はすな
  6. `と云ひし事が不便さに
  7. `朝敵を平らげん時あの右衛門督には大将軍せさせこれには副将軍をせさせんずれば
  8. `とて名を
  9. `副将
  10. `と付けたりしかば斜めならず嬉しげにて今を限りの時までも名を云ひなどして愛せしが七日といふにつひにはかなくなるとぞよ
  11. `この子を見る度毎にはその事が忘れ難く覚ゆるぞや
  12. `とて泣かれければ守護の武士共も皆鎧の袖をぞ絞りける
  1. `ややあつて大臣殿
  2. `いかに副将よ早う帰れ
  3. `と宣へども若君帰り給はず
  4. `右衛門督これを見給ひて
  5. `あはれいかにや副将御前今夜は疾う帰れ
  6. `只今客人の来うずるに朝は急ぎ参れ
  7. `と宣へども父の御浄衣の袖にひしと取り付いて
  8. `否や帰らじ
  9. `とこそ泣かれけれ
  1. `かくて遥かにほど経れば日も漸う暮れかかりぬ
  2. `さてしもあるべき事ならねば乳母の女房抱き取つてつひに車に乗せ奉る
  3. `二人の女房共も袖を顔に押し当て泣く泣く暇申しつつ共に乗つてぞ出でにける
  4. `大臣殿は若君の後ろを遥かに御覧じ送つて
  5. `日比の恋しさは事の数ならず
  6. `とぞ悲しみ給ひける
  1. `この子は母の遺言の無慙さに差し放つて乳母などの許へも遣はさず朝夕御前にて育て給ふ
  2. `三歳で初冠させて
  3. `義宗
  4. `とぞ名乗らせける
  1. `漸う生ひ立ち給ふほどに眉目形世に勝れ心様優におはしければ大臣殿も斜めならず嬉しき事に思してされば西海の旅の空舟の内のまでも引き具して片時も離れ給はず
  2. `然るを軍敗れて後は今日ぞ互ひに見給ひける
  1. `重房判官に申しけるは
  2. `抑も若君をば何と御計らひ候ふべき
  3. `と申しければ
  4. `鎌倉まで具足し奉るに及ばず
  5. `汝これにてともかくも相計らへ
  6. `と宣ひければ重房宿所に帰りて二人の女房共に申しけるは
  7. `大臣殿は明日鎌倉へ下向候ふ
  8. `重房も御供に罷り下り候ふ間緒方三郎惟義が手へ渡し参らせ候ふべし
  9. `さらば疾う疾う召され候へ
  10. `とて御車寄せたりければ若君は
  11. `また昨日のやうに父の御許へか
  12. `とて斜めならず嬉しげに思したるこそいとほしけれ
  13. `二人の女房も一つ車に乗りてぞ出でにける
  1. `六条を東へ遣つて行く
  2. `あはれこれは怪しきものかな
  3. `と肝魂を消して見るところにややあつて兵共五六十騎がほど喚いて河原の中へうち出でたり
  4. `やがて車を遣り留め
  5. `若君下りさせ給へ
  6. `とて敷皮敷いて据え奉る
  1. `若君世にも心細げに思して
  2. `我をば何方へ具して行かんとはするぞ
  3. `と宣へば二人の女房共とかうの御返事にも及ばず声をばかりにぞ喚き叫ぶ
  4. `重房が郎等太刀を引き側めて左の方より若君の御後に立ち廻り既に斬り奉らんとしけるを若君見付け給ひて幾ほど遁るべき事のやうに急ぎ乳母の懐の内へぞ逃げ入らせ給ひける
  5. `二人の女房共若君を抱え参らせて
  6. `ただ我々を失ひ給へ
  7. `とて天に仰ぎ地に伏して泣き悲しめどもかひぞなき
  1. `ややあつて重房涙を押さへて申しけるは
  2. `今はいかにも叶はせ給ふべからず
  3. `とて急ぎ乳母の懐の内より若君引き出だし参らせ腰の刀にて押し伏せてつひに首をぞ馘いてける
  4. `首をば判官に見せん
  5. `とて取つて行く
  1. `二人の女房共徒跣にて追つ付き
  2. `何か苦しう候ふべき
  3. `御首をば賜って御孝養をし参らせ候はん
  4. `と申しければ判官情ある人にて
  5. `尤もさるべし
  6. `疾う疾う
  7. `とて賜びにけり
  8. `二人の女房共斜めならずに悦びこれを取つて懐に引き入れて京の方へ帰るとぞ見えし
  1. `その後五六日して桂川に女房二人身を投げたりといふ事ありけり
  2. `一人幼き人の首を懐に入れて沈みたりしはこの若君の乳母の女房にてぞありける
  3. `今一人骸を抱いて沈みたりしは介錯の女房なり
  4. `乳母が思ひ切るはせめていかがせん介錯の女房さへ身を投げけるこそ有難けれ