(一六二)嗣信最期

原文

  1. `判官その日の装束には赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧着て金作りの太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ滋籐の弓の真中持つて舟の方を睨まへ大音声を揚げて
  2. `一院の御使検非違使五位尉源義経
  3. `とこそ名乗つたれ
  4. `次に名乗るは伊豆国の住人田代冠者信綱
  5. `武蔵国の住人金子十郎家忠
  6. `同与一親範
  7. `伊勢三郎義盛
  8. `とぞ名乗つたる
  9. `続いて名乗るは後藤兵衛実基
  10. `子息新兵衛基清
  11. `奥州佐藤三郎兵衛嗣信
  12. `同四郎兵衛忠信
  13. `江田源三
  14. `熊井太郎
  15. `武蔵坊弁慶
  16. `などいふ一人当千の兵共声々に名乗りて馳せ来たる
  1. `平家の方にはこれを見て
  2. `あれ射取れや射取れ
  3. `とて或いは遠矢に射る舟もあり或いは差し矢に射る舟もあり
  1. `源氏の兵共これを事ともせず弓手に成しては射て通り馬手に成しては射て通る
  2. `上げ置いたる舟共の陰を馬休め所として喚き叫んて攻め戦ふ
  3. `後藤兵衛実基は古兵にてありければ磯の軍をばせずまづ内裏に乱れ入り手々に火を放つて片時の煙と焼き払ふ
  1. `大臣殿侍共に
  2. `源氏の勢はいかほどあるぞ
  3. `と問ひ給へば
  4. `七八十騎にはよも過ぎ候はじ
  5. `あな心憂や
  6. `髪の筋を一筋づつ分けて取るともこの勢には足るまじかりつるものを
  7. `中に取り籠め討たずして周章てて船に乗つて内裏を焼かせぬる事こそ口惜しけれ
  8. `能登殿はおはせぬか
  9. `陸へ上つて一軍し給へかし
  10. `と宣へば
  11. `承り候ふ
  12. `とて越中次郎兵衛盛嗣上総五郎兵衛忠光悪七兵衛景清を先として都合五百余人小舟に取り乗つて焼き払ひたる惣門の渚に押し寄せて陣を取る
  13. `判官も八十余騎矢比に寄せて控へたり
  1. `平家の方より越中次郎兵衛舟の屋形に進み出で大音声を揚げて
  2. `抑も以前に名乗り給ふとは聞きつれども海上遥かに隔つてその仮名実名分明ならず
  3. `今日の源氏の大将軍は誰人にてましますぞ
  4. `名乗り給へや
  5. `と云ひければ伊勢三郎歩み出でて
  6. `あな事もおろかや清和天皇十代の後胤鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿ぞかし
  7. `盛嗣聞きて
  8. `さる事あり
  9. `一年平治の合戦に父討たれて孤子に成りしが鞍馬の児して後には金商人の所従と成り粮料背負うて奥州の方へ落ち惑ひしその小冠者が事か
  10. `とぞ云ひける
  11. `義盛聞いて
  12. `舌の柔らかなるままに君の御事な申しそ
  13. `さ云ふ和人共こそ北国砥浪山の軍にうち負け辛き命生きつつ北陸道に彷徨ひ乞食して上つたるその人か
  14. `とぞ云ひける
  15. `盛嗣聞いて
  16. `何条君の御恩に飽き満ちて何の不足あつてか乞食をばすべき
  17. `さ云ふ和殿こそ伊勢鈴鹿山にて山立ちして我が身も所従をも過ぐしけるとは聞きしか
  18. `と云ひければ金子十郎進み出で
  19. `詮ない殿原の雑言かな
  20. `我も人も虚言云ひ付けて雑言せんに誰かは劣るべき
  21. `さても去年の春摂津国一谷にて武蔵相模の若殿原の手並のほどをば見てんものを
  22. `と云ひければ弟の与一傍にありけるが云はせも果てず十二束二伏よつ引いてひやうと放つ
  23. `次郎兵衛が鎧の胸板に裏掻くほどにぞ立つたりける
  24. `さてこそ互ひの詞戦ひは止みにけれ
  1. `能登守教経
  2. `舟軍はやうあるものぞ
  3. `とて鎧直垂をば着給はず唐巻染の小袖に唐綾威の鎧着て厳物作りの太刀を帯き二十四差いたる鷹黶の矢負ひ滋籐の弓を持ち給へり
  4. `王城一の強弓精兵なりければ能登殿の矢先に廻る者一人も射落されずといふ事なし
  5. `中にも源氏の大将軍九郎義経をただ一矢に射んと狙はれけれども源氏の方にも先に心得て奥州佐藤三郎兵衛嗣信同四郎兵衛忠信江田源三熊井太郎武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵共馬の頭を一面に立て並べて大将軍の矢面に馳せ塞がりければ力及び給はず
  1. `能登殿
  2. `其処退き候へ矢面の雑人原
  3. `とて差し詰め引き詰め散々に射給へば矢庭に鎧武者十余騎ばかり射落さる
  4. `中にも真先に進んだる奥州佐藤三郎兵衛嗣信は弓手の肩を馬手の脇へつつと射抜かれて暫しも堪らず馬より倒にどうと落つ
  1. `能登殿の童に菊王丸といふ大力の剛の者萌黄威の腹巻に三枚甲の緒を締め打物の鞘を外いて嗣信が首を取らんと飛んで懸かるを忠信傍にありけるが兄が首を取らせじと十三束三伏よつ引いてひやうと放つ
  2. `菊王丸が草摺の外れ彼方へつつと射ぬかれて犬居に倒れぬ
  3. `能登守これを見給ひて左の手には弓を持ち右の手にて菊王丸を掴んで舟へからりと投げ入らる
  4. `敵に首は取られねども痛手なればや死ににけり
  1. `この童と申すは越前三位通盛卿の童なり
  2. `然るを三位討たれ給ひて後弟能登守にぞ仕はれけり
  3. `生年十八歳とぞ聞えし
  4. `能登殿この童を討たせてあまりに哀れに思はれければその後は軍もし給はず
  1. `判官は嗣信を陣の後ろへ舁き入れさせ急ぎ馬より飛んで下り手を取つて
  2. `いかが覚ゆる
  3. `三郎兵衛息の下より申しけるは
  4. `今はかうと覚え候へ
  5. `思ひ置く事はなきか
  6. `と宣へば
  7. `別に何事をか思ひ置き候ふべき
  8. `さは候へども君の御世に渡らせ給はんを見参らせずして死に候ふ事こそ心に懸かり候へ
  9. `さ候はでは弓箭取る身は敵の矢に当たつて死ぬる事もとより期するところでこそ候へ
  10. `就中
  11. `源平の御合戦に奥州佐藤三郎兵衛嗣信と云ひけん者讃岐国八島の磯にて主の御命に代はりて討たれたり
  12. `と末代までの物語に申されん事今生の面目冥土の思ひ出なるべし
  13. `とてただ弱りに弱りにける
  14. `判官も哀れに思ひ給ひて鎧の袖をぞ濡らされける
  1. `ややあつて
  2. `このほどに貴き僧やある
  3. `とて一人尋ね出ださせ
  4. `手負の只今死に候ふを一日経書きて弔ひ給へ
  5. `とて黒き馬の太う逞しきによい鞍置いてかの僧に賜びける
  6. `この馬と申すは判官五位尉に成られし時これをも五位に成して
  7. `大夫黒
  8. `と呼ばれし馬なり
  9. `一谷の後ろ鵯越をもこの馬にてぞ落されける
  1. `弟忠信を始めとしてこれを見る兵共皆涙を流して
  2. `この君の御為に命を失はん事は全く露塵ほども惜しからじ
  3. `とぞ申しける