一六一勝浦

原文

  1. `明ければ渚には赤旗少々閃いたり
  2. `判官
  3. `すはや我等が設け共をばし置きたるぞ
  4. `舟平付けに付けて馬下ろさんとせば敵の的になりて射られなんず
  5. `渚近うならぬ先に舟共踏み傾け踏み傾け馬共追ひ下ろし追ひ下ろし舟に引き付け引き付け泳がすべし
  6. `馬の足立ち鞍爪浸るほどにもならばひたひたとうち乗つて駆けよ者共
  7. `とぞ下知せられける
  1. `五艘の舟には兵糧米積み物具入れたりければ馬ただ五十余疋ぞ立つたりける
  2. `案の如く渚近うなりしかば舟共踏み傾け踏み傾け馬共追ひ下ろし追ひ下ろし船に引き付け引き付け泳がす
  3. `馬の足立ち鞍爪浸るほどにもなりしかばひたひたとうち乗つて判官五十騎喚いて先を駆け給へば渚に控へたりける百騎ばかりの兵共暫しも堪らず二町ばかりさつと引いてぞ退きにける
  1. `判官渚に上がり馬の息休めておはしけるが伊勢三郎義盛を召して
  2. `あの勢の中にさりぬべき者やある
  3. `一人具して参れ
  4. `尋ぬべき事あり
  5. `と宣へば義盛畏り承つて百騎ばかりの勢の中へただ一騎駆け入つて何とか云ひたりけん年の齢四十ばかりなる男の黒皮威の鎧着たるを甲を脱がせ弓の弦外させ一人具して参りたり
  1. `判官
  2. `あれはいかに
  3. `と宣へば
  4. `当国の住人坂西近藤六親家
  5. `と名乗る
  6. `判官
  7. `それは何家にてもあらばあれ
  8. `これより八島の案内者に具せんずるぞ
  9. `しやつに目放つな
  10. `物具な脱がせそ
  11. `逃げて行かば射殺せ者共
  12. `とぞ下知せられける
  1. `判官親家を召して
  2. `此処をば何処と云ふぞ
  3. `と問ひ給ひければ
  4. `勝浦
  5. `と申す
  6. `判官笑つて
  7. `色代な
  8. `と宣へば
  9. `一定勝浦にて候ふ
  10. `下臈の申し安きままに
  11. `かつら
  12. `とは申し候へども文字には
  13. `勝浦
  14. `と書いて候ふ
  15. `と申しければ判官
  16. `あれ聞き給へ東国の殿原
  17. `軍しに向かふ義経が勝浦に着くめでたさよ
  18. `とぞ宣ひける
  1. `判官近藤六を召して
  2. `この辺に平家の矢射つべき仁は誰かある
  3. `と宣へば
  4. `阿波民部重能が弟桜間介能遠とて候ふ
  5. `と申す
  6. `いざさらば蹴散らして通らん
  7. `とて近藤六が勢百騎ばかりが中より馬や人やを選つて三十騎我が勢にこそ付けられけれ
  8. `能遠が城に押し寄せて見給へば三方は沼一方は堀なり
  9. `堀の方より押し寄せて鬨をどつとぞ作りける
  1. `城の内の兵共
  2. `ただ射取れや射取れ
  3. `とて差し詰め引き詰め散々に射けれども源氏の兵共これを事ともせず甲の錣を傾け喚き叫んで攻め入りければ能遠叶はじとや思ひけん家子郎等に防ぎ矢射させ我が身は究竟の馬を持ちたりければそれにうち乗つて稀有で落ちにけり
  4. `残り留まつて防ぎ矢射ける兵共二十余人が首斬り懸けさせ軍神に祭り鬨をどつと作り
  5. `門出よし
  6. `とぞ悦ばれける
  1. `判官親家を召して
  2. `これより八島には幾日路ぞ
  3. `二日路候ふ
  4. `と申す
  5. `八島には勢いかほどあるらん
  6. `千騎にはよも過ぎ候はじ
  7. `など少ないぞ
  8. `かやうに四国の浦々島々に五十騎百騎づつ差し置かれて候ふ
  9. `その上八島には阿波民部重能が嫡子田内左衛門教能は伊予国河野四郎が召せども参らぬを攻めんとて三千余騎で伊予へ越えて候ふ
  10. `と申す
  11. `さてはよき隙ごさんなれ
  12. `敵の聞かぬ先にさらば疾う寄せよや
  13. `とて駆け足になりつ歩みつ馳せつ控えつ阿波と讃岐の境なる大坂越といふ山を終夜こそ越えられけれ
  1. `その夜半ばかり立文持ちたる男一人判官に行き連れたり
  2. `この男夜の事なれば敵とは夢にも知らず
  3. `御方の兵共の八島へ参るにこそとや思ひけんうち解けて細々と物語をぞしける
  1. `判官
  2. `これは八島へ参るが案内を知らぬぞ尋所せよ
  3. `と宣へばこの男は
  4. `度々参つて八島の案内よく知つて候ふ
  5. `と申す
  6. `判官
  7. `さぞあるらん
  8. `さてその文は何処よりか何方へ参らせらるるぞ
  9. `と宣へば
  10. `これは京より女房の八島の大臣殿へ参らせられ候ふ
  11. `何事にや
  12. `と問ひ給へば
  13. `よも別の事では候はじ
  14. `源氏既に淀川尻に出で浮かうで候へばそれをこそ告げ申され候ふらめ
  15. `と申しければ判官
  16. `あの文奪へ
  17. `とて持ちたる文を奪ひ取り
  18. `しやつ搦めよ
  19. `罪作りに首な斬りそ
  20. `とて山中の木に縛り付けさせてこそ通られける
  1. `判官さてかの文を開けて見給へばまことに女房の文と思しくて
  2. `九郎はすすどき男にてかかる大風大波をも嫌はず寄せ候らんと覚え候ふ
  3. `相構へて御勢共散らさせ給はで用心よくせさせ給へ
  4. `とぞ書かれたる
  5. `判官
  6. `これは義経に天の与へ給ふ文なり
  7. `鎌倉殿に見せ申さん
  8. `とて深う納めてぞ置かれける
  1. `明くる十八日引田といふ在所に下りて人馬の息をぞ休めてそれより白鳥丹生屋うち過ぎうち過ぎ八島の城へぞ寄せ給ふ
  2. `判官また親家を召して
  3. `これより八島の館はいかやうなるぞ
  4. `と問ひ給へば
  5. `知ろし召されねばこそ候へ無下に浅間に候ふ
  6. `潮の干て候ふ時は陸と島との間は馬の太腹も浸かり候はず
  7. `と申す
  1. `敵の聞かぬ先さらば疾う寄せよや
  2. `とて牟礼高松の在家に火を懸けて八島の城へぞ寄せられける
  3. `さるほどに八島には阿波民部重能が嫡子田内左衛門教能は伊予河野四郎が召せども参らぬを攻めんとて三千余騎で伊予へ越えたりしが河野をば討ち洩らしぬ
  4. `家子郎等百五十余人が首斬りて八島の内裏へ参らせたり
  1. `内裏にて賊首の実検然るべからずとて大臣殿の御宿所にて首共実検しておはしける処に者共
  2. `牟礼高松の在家より火出で来たり
  3. `とて犇きけり
  4. `昼で候へば手過ちにてはよも候はじ
  5. `敵の寄せて火を懸けたると覚え候ふ
  6. `定めて大勢でぞ候ふらん
  7. `取り籠められては叶ひ候ふまじ
  8. `疾う疾う召され候へ
  9. `とて惣門の前の渚に幾らも付け並べたる舟共に我も我もと周章て乗り給ふ
  10. `御所の御舟には女院北政所二位殿以下の女房達も召されけり
  11. `大臣殿父子は一つ舟に乗り給ふ
  12. `その外の人々は思ひ思ひに取り乗つて或いは一町ばかり或いは七八段或いは五六段など漕ぎ出だしたる所に源氏の兵共直甲七八十騎惣門の前の渚につとうち出でたる
  1. `潮干潟の折節潮干る盛りなりければ馬の烏頭鞅尽くし太腹に立つ所もありそれより浅き所もあり蹴上ぐる潮の霞と共にしぐらうたる中より白旗をさつと差し上げたれば平家は運尽きて大勢とこそ見てけれ
  2. `判官敵に小勢と見えじとて五六騎七八騎十騎ばかりうち群れうち群れ出で来たる