一五(一四〇)重衡虜

原文

  1. `本三位中将重衡卿は生田森の副将軍にておはしけるがその日の装束には褐に白う黄なる糸を以て岩に群千鳥繍うる直垂に紫裾濃の鎧着て童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に乗り給へり
  2. `乳母子の後藤兵衛盛長は滋目結の直垂に緋威の鎧着て三位中将のさしも秘蔵せられたる夜目無月毛にぞ乗せられたる
  3. `主従二騎助け舟に乗らんとて細道にかかつて落ち給ふ処に庄四郎高家梶原源太景季よい敵と目をかけ鞭鐙を合はせて追ひ駆け奉る
  4. `渚には助け舟共幾らもありけれども後ろより敵は追つ駆けたり乗るべき隙もなかりければ湊川苅藻川をもうち渡り蓮池を馬手に見て駒林を弓手に成し板宿須磨をもうち過ぎて西を指してぞ落ち給ふ
  5. `三位中将は童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に乗り給ひたりければ揉み伏せたる馬の容易う追つ付くべしとも見えざりければ梶原もしやと遠矢によつ引いてひやうと放つ
  6. `三位中将の馬の三頭を箆深に射させて弱る処に乳母子後藤兵衛盛長は
  7. `我が馬召されなん
  8. `とや思ひけん鞭を打つてぞ逃げたりける
  1. `三位中将
  2. `いかに盛長我をば捨てて何処に行くぞ
  3. `年比日比さは契らざりしものを
  4. `と宣へども空聞かずして鎧に付けたりける赤標共かなぐり捨ててただ逃げにこそ逃げたりけれ
  1. `三位中将馬は弱る海へさつとうち入れられけれども其処しも遠浅にて沈むべきやうもなかりければ急ぎ馬より飛んで下り上帯切り高紐外し既に腹を切らんとし給ふ所に庄四郎高家鞭鐙を合はせて馳せ来たり急ぎ馬より飛んで下り
  2. `正なう候ふ
  3. `何処までも御供仕り候はんものを
  4. `とて我が乗つたりける馬に掻き乗せ奉り鞍の前輪に締め付け奉つて我が身は乗替に乗つてぞ帰りける
  1. `乳母子の盛長は其処をばなつく逃げ延びて後には熊野法師に尾中法橋を頼うで居たりけるが法橋死んで後後家の尼公訴訟の為に京へ上るに供して上りたりければ三位中将の乳母子にて上下多くは見知れたり
  2. `あな憎や後藤兵衛盛長が三位中将のさしも不便にし給ひつるに一所でいかにも成らずして思ひも寄らぬ後家尼公の供して上りたるよ
  3. `とて皆爪弾をぞしける
  4. `盛長もさすが恥づかしうや思ひけん扇を顔にかざしけるとぞ聞えし