一四(一三九)忠度最期

原文

  1. `薩摩守忠度は一谷の西の手の大将軍にておはしけるがその日の装束には紺地の錦の直垂に黒糸威の鎧着て黒き馬の太う逞しきに鋳懸地の鞍置いて乗り給ひたりけるがその勢百騎ばかりが中にうち囲まれていと騒がず控へ控へ落ち給ふ処にここに武蔵国の住人岡部六弥太忠純よい敵と目を懸け鞭鐙を合はせて追つ駆け奉り
  2. `あれはいかによき大将軍とこそ見参らせて候へ
  3. `正なうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな
  4. `返させ給へ返させ給へ
  5. `これは御方ぞ
  6. `とて振り仰ぎ給ふ内甲を見入れたれば鉄漿黒なり
  7. `あつぱれ御方に鉄漿付けたる者は無きものをいかさまにもこれは平家の君達にておはすらめ
  8. `とて押し並べてむずと組む
  9. `これを見て百騎ばかりの兵共皆国々の仮武者なりければ一騎も落ち合はず我先にとぞ落ち行きける
  1. `薩摩守は聞ゆる熊野育ち早技の大力にておはしければ六弥太を掴うで
  2. `憎い奴が御方ぞと云はば云はせよかし
  3. `とて馬の上にて二刀落ちつく所で一刀三刀までこそ突かれけれ
  4. `二刀は鎧の上なれば通らず
  5. `一刀は内甲へ突き入れられたりけれども薄手なれば死なざりけるを取つて押さへて首を馘かんとし給ふ処に六弥太が童後れ馳せに馳せ来て急ぎ馬より飛んで下り打刀を抜いて薩摩守の右の肘を臂の本よりふつと打ち落す
  1. `薩摩守今はかうとや思はれけん
  2. `暫し退け最後の十念唱へん
  3. `とて六弥太を掴んで弓杖ばかりをぞ投げ退けらる
  4. `その後西に向かひ
  5. `光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨
  6. `と宣ひも果てねば六弥太後ろより寄せて薩摩守の首を取る
  7. `よき大将軍討ち奉りたり
  8. `とは思へども名をば誰とも知らざりけるが箙に結び付けられたる文を取つて見ければ
  9. `旅宿花
  10. `といふ題にて歌をぞ一首の詠まれたる
  11. `行き暮れて木のしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし
  12. `忠度
  13. `と書かれたりける故にこそ薩摩守とは知りてけれ
  1. `やがて首をば太刀の鋒に貫き高く差し上げ大音声を揚げて
  2. `この日比日本国に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩守殿をば武蔵国の住人猪俣党に岡部六弥太忠純が討ち奉つたるぞや
  3. `と名乗つたりければ敵も御方もこれを聞いて
  4. `あないとほし
  5. `武芸にも歌道にも優れてよき大将軍にておはしつる人を
  6. `とて皆鎧の袖を濡らしける