(一八)一行

原文

  1. `十禅師権現の御前にて大衆また僉議す
  2. `抑も我等粟津へ行き向かつて貫首を奪ひ留め奉るべし
  3. `但し追立の鬱使領送使あんなれば左右なう取得奉らん事有難し
  4. `山王大師の御力の外は頼み奉る方なし
  5. `まことに別の子細なく取得奉るべくは此処にてまづ我らに験を見せしめ給へ
  6. `と老僧共肝胆を砕いて祈りければここに無動寺法師乗円律師が童に鶴丸とて生年十八歳になるが心身を苦しめ五体に汗を流いて俄に狂ひ出でたり
  7. `我が十憚師乗り居させ給へり
  8. `末代といふともいかでか我が山の貫首をば他国へは遷さるべき
  9. `生々世々に心憂し
  10. `さらんに取つては我この麓に跡を留めても何にかはせん
  11. `とて左右の袖を顔に押し当ててさめざめと泣きければ大衆これを怪しみて
  12. `まことに十禅師権現の御託宣にてましませば我等験を参らせん
  13. `一々に元の主に返し給べ
  14. `とて老僧共四五百人手々に持ちたる数珠共を十禅師の大床の上へぞ投げ上げたる
  15. `この物狂ひ走り廻り拾ひ集めて少しも違へず一々に元の主にぞ配りける
  16. `大衆神明の霊験灼なる事の尊さに皆掌を合はせて随喜の感涙をぞ催しける
  1. `その儀ならば行き向かひて奪ひ留め奉れや
  2. `と云ふほどこそありけれ雲霞の如くに発向す
  3. `或いは志賀唐崎の浜路に歩み続ける大衆もあり
  4. `或いは山田矢走の湖上に舟押し出だす衆徒もあり
  5. `これを見てさしも厳しげなりつる追立の鬱使領送使皆散り散りに逃げ去りぬ
  1. `大衆国分寺へ参り向かふ
  2. `先座主大きに騒いで
  3. `勅勘の者は月日の光にだにも当たらずとこそ承れ
  4. `いかに況や時刻を廻らさず急ぎ追ひ下さるべしと院宣の旨のなりたるに少しも休らふべからず
  5. `衆徒疾う疾う帰り上り給へや
  6. `とて端近う居出でて宣ひけるは
  7. `三台槐門の家を出で四明幽渓の窓に入りしより以来広く円宗の教法を学して顕密両宗を学びき
  8. `ただ我が山の興隆をのみ思へり
  9. `また国家を祈り奉る事もおろそかならず
  10. `衆徒を育む志も深かりき
  11. `両所山王定めて照覧し給ふらん
  12. `身に誤つ事なし
  13. `無実の罪によりて遠流の重科を蒙れば世をも人をも神をも仏をも恨み奉る事なし
  14. `まことにこれまで訪ひ来たり給ふ衆徒の芳志こそ報じ尽くし難けれ
  15. `とて香染の御衣の袖を絞りも敢へさせ給はねば大衆も皆鎧の袖をぞ濡らしける
  1. `既に御輿差し寄せて
  2. `疾う疾う
  3. `と申しければ先座主宣ひけるは
  4. `昔こそ三千の衆徒の貫首たりしが今はかかる流人の身となつていかでか止む事なき修学者智恵深き大衆達には舁き捧げられては上るべき
  5. `たとひ上るべきなりとも藁沓などいふ物を縛り履いて同じやうに歩み続いてこそ上らめ
  6. `とてつひに乗り給はず
  1. `ここに西塔の住侶戒浄坊阿闍梨祐慶といふ悪僧あり
  2. `長七尺ばかりありけるが黒革威の鎧の大荒目に金混ぜたるを草摺長に着なし甲をば脱いで法師原に持たせつつ白柄の長刀杖につき大衆の中を押し分け押し分け先座主の御前に参り大の眼を見瞋し先座主を暫し睨まへ奉つて
  3. `その御心でこそかかる御目にも逢はせ給ひ候へ
  4. `疾う疾う召さるべう候ふ
  5. `と申しければ先座主恐ろしさに急ぎ乗り給ふ
  1. `大衆取得奉る事の嬉しさに賤しき法師原にはあらず止事なき修学者智恵深き大衆共が舁き捧げ奉つて上るほどに人は代はれども祐慶は代はらず前輿舁いて輿の轅も長刀の柄も砕けよと取るままにさしも峻しき東坂平地を行くが如くなり
  1. `大講堂の庭に輿舁き据ゑて大衆また僉議す
  2. `抑も我等粟津に行き向かひて貫首をば奪ひ留め奉りぬ
  3. `但し勅勘を蒙りて流罪せられ給ふ人を取り留め奉つて貫首に用ひ申さん事いかがあるべからん
  4. `と評定す
  5. `戒浄坊阿闍梨祐慶また先の如く進み出でて僉議しける事は
  6. `それ当山は日本無双の霊地鎮護国家の道場山王の御威光盛んにして仏法王法牛角なり
  7. `されば衆徒の意趣に至るまで並びなく賤しき法師原までも世を以て軽しめず
  8. `昔は智恵高貴にして三千の衆徒の貫首たり
  9. `今は徳行重うして一山の和尚たり
  10. `罪なくして罪を蒙り給ふ事山上洛中の憤り興福園城の嘲りにあらずや
  11. `この時顕密の主を失つて数輩の学侶蛍雪の勤め怠らん事心憂かるべし
  12. `詮ずるところ祐慶張本に称せられ禁獄流罪に及び首を刎ねられん事今生の面目冥土の思ひ出なるべし
  13. `とて双眼より涙をはらはらと流しければ数千人の大衆皆
  14. `尤も尤も
  15. `とぞ同じける
  16. `それよりしてこそ祐慶をば怒房とは云はれけれ
  17. `その弟子恵慶律師をば時の人小怒房とぞ申しける
  1. `先座主をば東塔の南谷妙光坊に入れ奉る
  1. `時の横災をば権化の人免れ給はざりけるにや
  2. `昔唐の一行阿闍梨は玄宗皇帝の護持僧にておはしけるが玄宗の后楊貴妃に名を立て給へり
  3. `昔も今も大国も小国も人の口の峻なさは跡形なき事なりしかどもその疑ひによつて覩貨邏国へ流されさせ給ふ
  1. `件の国へは三つの道あり
  2. `輪地道とて御幸道幽地道とて雑人の通ふ道暗穴道とて重科の者を遣はす道なり
  3. `されば一行阿闍梨は大犯の人なればとて暗穴道へぞ遣はしける
  4. `七日七夜が間月日の光を見ずして行く所なり
  5. `冥々として人もなく行歩に前途迷ひ森々として山深し
  6. `ただ澗谷に鳥の一声ばかりにて苔の濡れ衣乾し敢へず
  1. `無実の罪によつて遠流の重科蒙る事を天道憐れび給ひて九曜の像を現じつつ一行阿闍梨を守り給ふ
  2. `時に一行右の指を食ひ切つて左の袂に九曜の像を写されけり
  3. `和漢両朝に真言の本尊たる九曜曼陀羅これなり