巻第五 第六 和歌 四十二 第一八三段 を読み解く

原文と現代語訳

  1. 和泉式部保昌がにて丹後に下りける程に京に歌合ありけるに小式部内侍歌よみにとられてよみけるを定頼の中納言に小式部内侍に
  2. 丹後へつかはしける人は参りにたりや
  3. といひ入れて局の前を過ぎられけるを小式部内侍御簾より出でて直衣の袖をひかへて
  4. 大江山いく野のみちのとほければまだふみも見ずのはしだて
  5. とよみかけけり
  6. 思はずにあさましくて
  7. こはいかに
  8. とばかりいひてかへしにも及ばず袖をひき放ちて逃げられにけり
  9. 小式部これより歌よみの世におぼえいできにけり
  1. 和泉式部は藤原保昌の妻で、丹後国に下向していた頃、京で歌合があり、式部の娘・小式部内侍が歌詠みに選ばれて詠むことになったが、中納言・藤原定頼がたわむれに、小式部内侍に
  2. 丹後へ遣わした人は帰ってましたか
  3. と言い入れて局の前を通り過ぎられると、小式部内侍は御簾から半ば出て、直衣の袖を引き止めて
  4. 大江山 いく野のみちの とおければ まだふみも見ず のはしだて
  5. と詠みかけた
  6. 思わぬことに驚き呆れ
  7. な、なんと
  8. とだけ言って、返歌にも及ばず、袖を振りきって逃げてしまわれた
  9. 小式部はこれより歌詠みの世界で名を知られるようになった

読解

ほぼ同じ話が金葉和歌集の詞書にもあるので載せておきます。

金葉集 巻第九 雑歌上(抜粋)

  1. いづみしきぶ保昌にぐして丹後国に侍りけるころ都に歌合のありけるにこしきぶの内侍歌よみにとられて侍りけるを中納言定頼つぼねのかたにまうできて
  2. 歌はいかがせさせ給ふ
  3. 丹後へ人ばつかはしけんや
  4. 使いまだまうでこずや
  5. いかに心もとなくおぼすらんな
  6. とたはぶれて立けるをひきとどめてよめる
  7. 小式部内侍
  8. おほ江やまいく野のみちの遠ければまだふみもみず天のはしだて
校訂金葉集 巻第九 雑歌上
  1. 和泉式部が夫の藤原保昌に連れ添って丹後国におられた頃、都で歌合があり、娘の小式部内侍が歌詠みとして選ばれておられたが、中納言定頼が局の傍に参って
  2. 歌はいかがなさるのですか
  3. 丹後へ人を遣わしたのですか
  4. 使者はまだ戻ってこないのですか
  5. どんなにか心許無いお気持でしょうね
  6. と戯れて立つのを引き留めて、こう詠んだ
  7. 小式部内侍
  8. おお江やま いく野のみちの 遠ければ まだふみもみず 天のはしだて

当時小式部の歌には母・和泉式部による代作疑惑があったようです。それを種にからかわれたのを歌で切り返し、定頼に泡を吹かせる話ですが、歌中の技巧にばかり気を取られていると正鵠を失するので注意が必要です。歌は、まずは次のように読めます。

〔一〕おおえ山 いく野の道の 遠ければ まだ踏みも見ず 天のはしだて
大きな山や多くの山 幾多の野を行く道は 遠いから まだ足も踏み入れてもいない 天橋立のある丹後国
〔二〕大江山 生野の道の 遠ければ まだ文も見ず 天のはしだて
大江山 生野の道は 遠いから まだ手紙も見ていない 天橋立のある丹後国

おほえ(大江)おほい(多い)おほい(大い)の三つを統べるおほえという掛詞、幾多の野の幾野と野をゆく行く野と地名の生野の三つを統べるいく野という掛詞、大江山、生野、天橋立という三つの歌枕、にかかる踏みという縁語、が織り込まれています。

ここで、二人のやりとりを見てみます。

定頼
「使者は戻りましたか」
小式部
「丹後国は遠いので、まだ到着してもいません、だからまだ手紙も見ていません」
定頼
「ぎゃふん」

そのまま解釈すると読みを外します。歌は「使者は戻ったのか」という問いへの返答であり、「まだ」とも詠んでいるところから、赴くのは使者、使者は足を踏み入れてもいないので文を見ていないのは和泉式部、ということになってしまうからです。やりとりは歌合よりも前の事。終えてから使者が戻っても間に合いません。仮に手紙が歌詠みに選ばれたことを伝える内容であったとしても「やっぱり助けを求めていたんだな」と疑われえ、反駁は命中しません。これで定頼がうろたえ逃げていくというのは不自然です。また、単に自作を披露されたからというのも。彼とて当代に名を馳せた歌人なのです。ではなぜ彼は「こはいかに」という言葉を発し、返歌にも及ばず逃げたのか。

小式部は、藤原公任の次の歌を本歌に取ったと考えられます。この本歌には改作がいくつかありますが、最も似ているものと引照します。

大納言公任
をぐら山 あらしのかぜの さむければ もみぢのにしき きぬ人ぞなき
小式部内侍
 大江山  いく野のみちの とほければ まだふみも見ず 天のはしだて

国史大系 第拾七巻 大鏡

これが記されている大鏡によれば、藤原道長主催の和歌・漢詩・管弦の船三艘を浮かべた大井川逍遥における和歌の船上にて詠まれたとされています。別の作のひとつは右衛門督公任の名で拾遺和歌集に収められています。公任の右衛門督職は長徳二年(九九六年)から長保二年(一〇〇〇年)、大納言職は寛弘六年(一〇〇九年)から万寿元年(一〇二四年)。小式部の生誕は長保元年(九九九年)頃、保昌の丹後守職は寛仁四年(一〇二〇年)から四年ほどの間。したがって、本段の歌合は小式部が二十一歳を過ぎた頃と思われ、公任の大納言職との時期に重なりはありますが、二人の詠んだ状況などからしても、公任が本歌取りしたとは考えにくい。この公任こそ、定頼の父です。

小式部の歌にはいくつもの言葉が込められていました。それらを細かく見てみると、さらに奥行のあることがわかってきます。まず、大江山には山城(現・京都市西京区)・丹波(現・亀岡市)国境と丹後国内(現・福知山市周辺)の二箇所が、生野には丹波国の東側(現・亀岡市、先の大江山の西付近)と西側(但馬国、現・朝来市)と丹後国内(現・福知山市)の三箇所が、京と丹後国を結ぶ丹州路(古の山陰道)の周辺にあり、登場する歌枕を地図上に外郭線で繋ぐと、北を上にして末広がりの凡そ三角形ができます。頂こそ丹後国随一の地、天橋立。構図はまるで、歌枕が散らばる景色を縫うひとつ道を描いた地紙と骨組に名勝の要を打って拵えられた一本の扇。おほえ山いく野の意味の数からしても、歌枕の被りは偶然ではなく、意図的なものとみてよさそうです。次に、〔一〕と〔二〕ですが、これらは相反する方向性を持っています。前者は、野々山々の向こうの、まだ行ったことのない所へ、すなわち京から丹後国へ。後者は、大江山や生野といった地に思いを巡らせつつ待つ、まだ便りの来ない所から、すなわち丹後国から京へ。京から見ての往と来です。加えて、下の句も入れ替えられない固定性を持っています。前者は、地名が伏せられることによる未知の地の遠路の強調。後者は、地名が知れることによるその地からの便りへの待望の強調です。目的地への到達を期待させる踏むという縁語の存在がここで効いてきます。つまり、共有する腰句のとほければには、前者では物理的な遠さに旅情が、後者では心理的な遠さに慕情が込められており、両者は、意味の濁ることなく分かれ且つ縒り合わさって、心象風景の色を深めているのです。推考にはなりますが、落句の天のはしだてには、丹後国風土記に記されている伊射奈芸命が天に行くために立てた梯であったとする由来に、己が行きたい心を重ねている、と読んでみると、歌の結びにも、その思いにも、より深みを感じます。

小式部と定頼は恋人同士の時期があったとも言われており、彼女の腕を売り出すための芝居だったのではないか、という見方もあるようですが、そんな小細工など弄さずとも十分高い評価を受けるに疑いないことは前述のとおりです。ここでは詳しくは触れませんが、公任のかの歌には、きぬという表現が来ぬすなわち来たに通じる、という点のもたらす欠陥があります。さしずめ、局の傍らのやりとりは、定頼に「お母様にいい歌を作ってもらいましたか」と揶揄された小式部が、己が歌と潜む本歌を併せて「あなたのお父様だって『小倉山に来た人はいない』とお詠みになっているではありませんか。丹後国は小倉山よりもっともっと向こうなのですから、なおのこと来ません」と答えたため、定頼は、本歌が父の歌であることと詠みの見事さと父の歌の欠点を包含した反駁とを突きつけられた格好になり、返しに詰まって逃げたのではないでしょうか。

小倉百人一首第六十番にこの歌と共に名を刻まれた小式部内侍は、万寿二年(一〇二五年)、二十代半ばの若さでこの世を去りました。