(九)貧福論

原文

  1. `陸奥の国蒲生氏郷の家に
  2. `岡左内といふ武士あり
  3. `禄おもくたかく
  4. `丈夫の名を関の東に震ふ
  5. `此士いと偏固なる事あり
  6. `富貴をねがふ心常の武辺にひとしからず
  7. `倹約を宗として家の掟をせしほどに
  8. `年を積みて富みえけり
  9. `かつ軍を調練には
  10. `茶味翫香をしまず
  11. `庁上なる所に許多を布きべて心をむる事
  12. `世の人の月花にあそぶに勝れり
  13. `人みな左内が行跡をあやしみて
  14. `吝嗇野情の人なりとて
  15. `爪はぢきをして悪みけり
  1. `家に久しき男に
  2. `黄金一枚かくし持ちたるものあるを聞きつけて
  3. `ちかく召していふ
  4. `崑山のもみだれたる世には瓦礫にひとし
  5. `かかる世にうまれて弓矢とらんには
  6. `棠谿墨陽の劒
  7. `さてはありたきもの財宝なり
  8. `されど良劔なりとて
  9. `千人のにはふべからず
  10. `金の徳は天が下の人をも従へつべし
  11. `武士たるものに扱ふべからず
  12. `かならず貯へ蔵むべきなり
  13. `汝賤しき身の分限に過ぎたるを得たるは嗚呼のなり
  14. `賞なくばあらじとて
  15. `十両の金を給ひ
  16. `刀をも赦して召しつかひけり
  17. `人これを伝へ聞きて
  18. `左内が金をあつむるは
  19. `長啄にして飽かざる類にはあらず
  20. `只当世の一奇士なりとぞいひはやしける
  1. `其夜左内が枕上に
  2. `人のきたる音しけるに
  3. `目さめて見れば灯台の下に
  4. `ちひさげなる翁の笑をふくみてれり
  5. `左内枕をあげて
  6. `ここに来るは誰そ
  7. `我に糧からんとならば
  8. `力量の男どもこそ参りつらめ
  9. `汝かやうのけたるさまして
  10. `ねぶりをひつるは
  11. `狐狸などのたはむるるにや
  12. `何のおぼえたる術かある
  13. `秋の夜の目さましに
  14. `そと見せよとて
  15. `すこしも騒ぎたる容色なし
  1. `翁いふ
  2. `かく参りたるは魑魅にあらず人にあらず
  3. `君がかしづき給ふ黄金の精霊なり
  4. `年来篤くもてなし給ふうれしさに
  5. `夜話せんとて推してまゐりたるなり
  6. `君が今日家の子を賞じ給ふにでて
  7. `翁が思ふこころばへをも語り和さまんとて
  8. `仮にを見はし侍るが
  9. `十にひとつもなき閑談ながら
  10. `いはざるは腹満つれば
  11. `わざとにまうでて眠をさまたげ侍る
  1. `さても富みて驕らぬは大聖の道なり
  2. `さるを世のことばに
  3. `富めるものはかならず慳し
  4. `富めるものは多く愚なりといふは
  5. `晋の石祟
  6. `唐の王元宝が如き
  7. `犲狼蛇蝎の徒のみをいへるなりけり
  8. `往古に富める人は
  9. `天の時をはかり
  10. `地の利をめて
  11. `おのづからなる富貴を得るなり
  12. `呂望斉に封ぜられて民に産業を教ふれば
  13. `海方の人利に走りてここに来朝
  14. `管仲九たび諸候をあはせて
  15. `身は倍臣ながら富貴は列国の君に勝れり
  16. `范蠡
  17. `子貢
  18. `白圭が徒
  19. `を粥ぎ利を逐ふ
  20. `巨万みなす
  21. `これらの人をつらねて貨殖伝し侍るを
  22. `其いふ所陋しとてのちの博士筆を競ふて謗るは
  23. `ふかくらざる人のなり
  24. `恒のなきは恒の心なし
  25. `百姓は勤めてを出し
  26. `工匠等めてこれを助け
  27. `商賈務めて此を通はし
  28. `おのれおのれがを治め家を富まして
  29. `を祭り子孫を謀る外
  30. `人たるもの何をか為さん
  1. `諺にもいへり
  2. `千金の子は市に死せず
  3. `富貴の人は王者とたのしみを同じうすとなん
  4. `まことに渕深ければ魚よく遊び
  5. `山長ければ獣よくそだつは
  6. `天のなることわりなり
  7. `只貧しうして楽しむてふ語ありて
  8. `字を学び韻を探る人の惑をとる端となりて
  9. `弓矢とるますら雄も富貴は国のなるをわすれ
  10. `あやしき計策をのみ調練ひて
  11. `ものをり人を
  12. `おのが徳をうしなひて子孫を絶つは
  13. `財を薄んじて名を重しとする惑なり
  14. `おもふに名とたからと求むるに心二つある事なし
  15. `文字てふものに繋がれて
  16. `金の徳を薄んじてはみづから清潔と唱へ
  17. `鋤を揮ふて棄てたる人を賢しといふ
  18. `さる人はかしこくとも
  19. `さるは賢からじ
  1. `は七の宝のなり
  2. `土に埋れては霊泉を湛へ
  3. `不浄を除き妙なるを蔵せり
  4. `かくよきものの
  5. `いかなれば愚昧貧酷の人にのみ集ふべきやうなし
  6. `今夜此憤を吐きて
  7. `年来のこころやりをなし侍る事の喜しさよといふ
  1. `左内興じてをすすみ
  2. `さてしもかたらせ給ふに
  3. `富貴の道のかたき事
  4. `がつねにおもふ所露違はずぞ侍る
  5. `ここに愚なる問事の侍るが
  6. `ねがふは詳に示させ給へ
  7. `今ことわらせ給ふは専ら金の徳を薄しめ
  8. `富貴の大業なる事をしらざるを罪とし給ふなるが
  9. `かの紙魚がいふ所もゆゑなきにあらず
  10. `今の世に富めるものは
  11. `十が八ツまではおほかた貧酷残忍の人多し
  12. `おのれは俸禄に飽きたりながら
  13. `兄弟一属をはじめ
  14. `より久しくつかふるものの貧しきを救ふ事をもせず
  15. `隣に栖みつる人のいきほひをうしなひ
  16. `さへなく世にくだりしものの田畑をも
  17. `価をくして強ちに己が物とし
  18. `今おのれは村長とうやまはれても
  19. `むかしかりたる人の物をかへさず
  20. `礼ある人のを譲れば
  21. `其人を奴の如く見おとし
  22. `たまたま旧き友の寒暑を訪らひ来れば
  23. `物からんためかと疑ひて
  24. `宿にあらぬよしを応へさせつる類あまた見来りぬ
  1. `又君に忠なるかぎりを
  2. `父母に孝廉の聞えあり
  3. `貴きを尊み
  4. `賤しきを扶くるありながら
  5. `三冬のさむきにも一に起き臥し
  6. `三伏の暑きにも一を濯ぐいとまなく
  7. `年豊なれども朝にに一椀の粥に腹をみたしめ
  8. `さる人はもとより朋友の訪ふ事もなく
  9. `かへりて兄弟一属にもられ
  10. `を絶たれて其怨を訴ふる方さへなく
  11. `汲々として一生を終ふるもあり
  12. `さらばその人は作業にうときゆゑかと見れば
  13. `夙に起き遅く臥して性力を凝し
  14. `西に走りまどふ蹺蹊さらになく
  15. `その人愚にもあらで
  16. `才を用ゐるにるはまれなり
  17. `これらは顔子が一瓢のをもしらず
  18. `かく果つるを仏家には前業をもて説きしめし
  19. `儒門には天命と教ふ
  20. `もし未来あるときは
  21. `現世の陰徳善功も来世のたのみありとして
  22. `人暫くここに憤を休めん
  23. `されば富貴のみちは仏家にのみその理をつくして
  24. `儒門の教は荒唐なりとやせん
  25. `も仏の教にこそらせ給ふらめ
  26. `否ならば詳にのべさせ給へ
  1. `翁いふ
  2. `君が問ひ給ふは往古より論じ尽さざることわりなり
  3. `かの仏の御法を聞けば
  4. `富と貧しきは前生脩否に因るとや
  5. `此はあらましなる教へぞかし
  6. `前生にありしとき
  7. `おのれをよく脩め
  8. `慈悲の心専らに
  9. `他人にもなさけふかくりし人の
  10. `その善報によりて
  11. `此生に富貴の家にうまれきたり
  12. `おのがたからをたのみて他人にいきほひをふるひ
  13. `あらぬ狂言をいひ
  14. `あさましき夷こころをも見するは
  15. `前生の善心かくまでなりくだる事は
  16. `いかなるむくひのなせるにや
  17. `仏菩薩は名聞利要をみ給ふとこそ聞きつる物を
  18. `など貧福の事にかかづらひ給ふべき
  19. `さるを富貴は前生のおこなひの善かりし所
  20. `貧賤は悪しかりしむくいとのみ説きなすは
  21. `尼媽かすなま仏法ぞかし
  1. `貧福をいはず
  2. `ひたすら善を積まん人は
  3. `その身に来らずとも
  4. `子孫はかならず幸福を得べし
  5. `宗廟これをけて子孫これを保つとは
  6. `此のことわりの細妙なり
  7. `おのれ善をなして
  8. `おのれその報の来るを待つは
  9. `直きこころにもあらずかし
  10. `又悪業慳貧の人の富みゆるのみかは
  11. `寿めでたくその終をよくするは
  12. `我に異なることわりあり
  13. `霎時聞かせたまへ
  14. `我今仮にをあらはして話るといへども
  15. `神にあらず仏にあらず
  16. `もと非情の物なれば
  17. `人と異なるあり
  1. `いにしへに富める人は
  2. `の時に
  3. `をあきらめて
  4. `産を治めて富貴となる
  5. `これ天のなる計策なれば
  6. `財のここにあつまるも天のまにまになることわりなり
  1. `又卑吝貪酷の人は
  2. `金銀を見ては父母の如くしたしみ
  3. `食ふべきをもはず
  4. `穿べきをも
  5. `得がたきいのちさへ惜しとおもはで
  6. `起きておもひ臥してわすれねば
  7. `ここにあつまる事目前なることわりなり
  8. `我もと神にあらず仏にあらず
  9. `只これ非情なり
  10. `非情のものとして人の善悪を糾し
  11. `それにしたがふべきいはれなし
  12. `善を撫で悪を罪するは
  13. `天なり神なり仏なり
  14. `三ツのものは道なり
  15. `我輩の及ぶべきにあらず
  16. `只かれらがつかへく事の恭しきにあつまるとしるべし
  1. `これ金に霊あれども
  2. `人とこころの異なる所なり
  3. `また富みて善根を種ゆるにも
  4. `故なきに恵みほどこし
  5. `その人の不義をもらめず
  6. `借しあたへたらん人は
  7. `善根なりとも財はつひに散ずべし
  8. `これらは金の用を知りて金の徳をしらず
  9. `かろくあつかふが故なり
  10. `又身のおこなひもよろしく
  11. `人にも志誠ありながら世にめられて苦しむ人は
  12. `天蒼氏の賜すくなく生れ出でたるなれば
  13. `精神を労しても
  14. `いのちのうちにや富貴を得る事なし
  15. `さればこそいにしへの賢き人は
  16. `もとめてあればもとめ益なくばもとめず
  17. `己が好むまにまに
  18. `世を山林にのがれてしづかに一生を終る
  19. `心のうちいかばかりしからんとは羨みぬるぞ
  20. `かくいへど富貴のみちはにして
  21. `巧なるものはよく
  22. `不肖のものは瓦の解くるより易し
  1. `且我輩は
  2. `人の生産につき廻りて
  3. `たのみとする主もさだまらず
  4. `ここにあつまるかとすれば
  5. `その主のおこなひによりて忽ちにかしこに走る
  6. `水のひくき方に傾くがごとし
  7. `夜に昼にゆきゆきて休むときなし
  8. `ただ閑人の生産もなくてあらば
  9. `泰山もやがてひ尽すべし
  10. `江海もつひに飲みほすべし
  1. `いくたびもいふ
  2. `不徳の人の財を積むは
  3. `これとあらそふことわり
  4. `君子は論ずる事なかれ
  5. `時を得たらん人の倹約を守り
  6. `つひえを省きてよく務めんには
  7. `おのづから家富み人服すべし
  8. `我は仏家の前業もしらず
  9. `儒門の天命にもかかはらず
  10. `異なる境にあそぶなりといふ
  1. `左内いよいよ興に乗じて
  2. `霊の議論きはめて妙なり
  3. `旧しき疑念も今夜に消じつくしぬ
  4. `試にふたたび問はん
  5. `今豊臣の威風四海を
  6. `五畿七道漸しづかなるに似たれども
  7. `亡国の義士彼此に潜み竄れ
  8. `或は大国の主に身を托せて世の変をうかがひ
  9. `かねて志を遂げんと策る
  10. `民も又戦国の民なれば
  11. `耒をてて矛に
  12. `農事を事とせず
  13. `士たるもの枕を高くして眠るべからず
  14. `今のにては長く不朽の政にもあらじ
  15. `誰か一統して民をやすきに居らしめんや
  16. `又誰にかし給はんや
  1. `翁いふ
  2. `これ又人道なれば
  3. `我しるべき所にあらず
  4. `只富貴をもて論ぜば
  5. `信玄が如く智謀は百が百らずといふ事なくて
  6. `一生の威を三国に震ふのみ
  7. `しかも名将の聞えは世挙りて賞する所なり
  1. `その末期の言に
  2. `当時信長は果報いみじき大将なり
  3. `平生を侮りて征伐を怠り此にかかる
  4. `我子孫も即て他に亡されんといひしとなり
  5. `謙信は勇将なり
  6. `信玄死しては天が下になし
  7. `不幸にしてくみまかりぬ
  8. `信長の器量人に優れたれども
  9. `信玄の智にかず謙信の勇に劣れり
  10. `しかれども富貴を得て
  11. `天が下の事一回は此人に
  12. `任ずるものを辱しめて命をすにて見れば
  13. `文武を兼ねしといふにもあらず
  14. `秀吉の志大なるも
  15. `はじめより天地に満つるにもあらず
  16. `柴田と丹羽が富貴をうらやみて羽柴といふを設けしにてしるべし
  17. `今龍と化して太虚に昇り
  18. `池中をわすれたるならずや
  19. `秀吉龍と化したれども蛟蜃の類なり
  20. `蛟蜃の龍と化したるは
  21. `寿わづかに三歳を過ぎずと
  22. `これもはた後なからんか
  23. `それ驕をもて治めたる世は往古より久しきを見ず
  24. `人の守るべきは倹約なれども
  25. `過ぐるものは卑吝に陥つる
  26. `されば倹約と卑吝の境
  27. `よくわきまへて務むべきものにこそ
  28. `今豊臣の政久しからずとも万民ははしく
  29. `戸々に千秋楽を唱はん事ちかきにあり
  1. `君が望にまかすべしとて八字の句を諷ふ
  2. `そのことばにいはく
  3. `尭蓂日杲
  4. `百姓帰
  5. `数言興尽きて遠寺の鐘五更を告ぐる
  6. `夜既に曙けぬ
  7. `別をたまふべし
  8. `今夜の長談まことに君が眠をさまたぐと
  9. `起ちてゆくやうなりしが
  10. `かき消して見えずなりにけり
  1. `左内熟々夜もすがらの事をおもひて
  2. `かの句を案ずるに
  3. `百姓家に帰すの句を得て
  4. `ふかくここにを発す
  5. `まことに瑞草の瑞あるかな

書下し文

  1. ``く日にらか
  2. ``百姓家に帰す