七九まぼろし

原文

  1. `この長蔵の父をも亦長蔵と云ふ
  2. `代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき
  1. `若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来り、の口より入りしに、洞前に立てる人影あり
  2. `懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず
  3. `妻は名をおつねと云へり
  4. `おつねの所へ来たるヨバヒトでは無いか
  5. `と思ひ、つかつかと近よりしに、奥の方へは遁げずして、却つて右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、猶進みたるに、懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入りたり
  6. `されど長蔵は猶不思議とも思はず、其戸の隙に手を差入れて中を探らんとせしに、中の障子はしくしてあり
  7. `に始めて恐ろしくなり、少し引下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁にひたと付きて我を見下す如く、其首は低く垂れて我頭に触るるばかりにて、其眼の球は尺余も、抜け出でてあるやうに思はれたりと云ふ
  1. `此時は只恐ろしかりしのみにて何事の前兆にても非ざりき

注釈

`ヨバヒトは呼ばひ人なるべし。女に思を運ぶ人をかく云ふ
`雲壁はなげしの外側の壁なり