現代語訳

  1. `一 能において
  2. `強き
  3. `幽玄
  4. `弱き
  5. `荒き
  6. `を知ること
  7. `大方は見てわかることであるから容易なように思われるが、真にこれを知らぬために弱く荒き仕手が多い
  8. `まず、一切の物真似において、偽るすなわち似せきれぬところで荒くも弱くもなると知るがよい
  9. `この境はそこそこの工夫では紛れてしまう
  10. `入念に心底を分けて思案し、修練を積むべきことである
  1. `まず、弱くあるべきところを強くするのは偽りすなわち真の物真似ではないのであるから、これは荒きである
  2. `強くあるべきところに強き、これは強きである
  3. `荒きではない
  4. `もし強くあるべきところを、幽玄にしようとして物真似が似ていないのは、幽玄ではなく、これは弱きである
  5. `したがって、物真似に任せてその物になりきって、偽りがなければ、荒くも弱くも決してならない
  6. `また、強くあるべき理が過ぎて強いのは、殊更荒きである
  7. `幽玄の風体をなおやさしくしようとすれば、これは殊更弱きである
  1. `この強きと荒き・幽玄と弱きの分け目であるが、よくよくみるに、幽玄や強きを真似る対象とは別に存在する物と心得るために迷うのである
  2. `この二つはその物のにある
  3. `例えば、人であれば、女御、更衣、または遊女、美女、美男、草木であれば、花の類
  4. `これらの数々はその姿がそもそも幽玄の物である
  5. `また、あるいは武士、荒夷、あるいは鬼、神、草木ならば、松、杉
  6. `これらの数々の類は強き物というべきか
  7. `こうした万物の品々をよくし似せれば幽玄の物真似は幽玄になり、強きは自ずと強いものになろう
  8. `この分け目を斟酌せず、ただ
  9. `幽玄にしよう
  10. `とばかり心得て物真似が粗雑ではそれに似ることはない
  11. `似ていないことも知らずに
  12. `幽玄にするぞ
  13. `と思う心、これは弱きである
  14. `よって、遊女や美男などの物真似をよく似せたならば自ずと幽玄になろう
  15. `ただ
  16. `似せよう
  17. `とのみ思うことである
  18. `また、強き事もよく似せれば自ずと強いものになろう
  1. `ただし、心得るべき事がある
  2. `いかんせん、この道は観覧者の批評を基準とするわざであるから、その時代時代の風儀で、幽玄を賞翫する見物衆の前においては強き方すなわち重きを、少し物真似から外れようとも幽玄の方に置くのがよかろう
  3. `この工夫を以て作者としてもまた心得るべき事がある
  4. `極力、申楽(猿楽)の素材には幽玄な人体を、そして一段と心や言葉もやさしさを嗜んで書く、ということである
  5. `それに偽りがなければすなわち真の物真似となっていれば自ずと幽玄な仕手に見えよう
  6. `幽玄の理を知りきわめれば自然と強きところも知れよう
  7. `その上で一切の似せ事をよく似せれば傍目に危く映ることはない
  8. `危からぬは強きである
  9. `また、些細な言葉の響きでも
  10. `
  11. `臥す
  12. `帰る
  13. `寄る
  14. `などといった言葉は柔和であるから自ずと余情になるようである
  15. `落ちる
  16. `崩れる
  17. `破れる
  18. `
  19. `などというのは強き響きであるから、振りも強くなるであろう
  20. `このように、強きや幽玄というのは別に存在するものではない
  21. `ただ物真似を素直に演ずるところにあるものであり、弱きや荒きは物真似から外れたところにあるものと知るがよい
  22. `この斟酌を以て、作者も、冒頭の句や謡の一声、和歌など、人体の物真似に応じて極力幽玄な余情や手がかりが欲しいところへ、荒き言葉を書き入れたり必要以上に捻りを効かせた梵語や漢音などを載せたりしたら、それは作者の僻事である
  23. `必ずや、言葉のままに風情を表現すれば人体に似合わぬところが生じよう
  24. `それでも、堪能の人ならばこの齟齬を心得、面白味のある故実・遺風を以て均すようにこなすであろう
  25. `それは仕手の手柄である
  26. `作者の僻事は逃れようがない
  27. `また、作者が心得て書いたところでもし仕手にその心がないにいたっては論外であろう
  28. `これは述べたとおりである
  1. `また、能によっては、あまり事細かに言葉や劇的な筋立にらず、鷹揚にすべき能もあろう
  2. `そうした能は、素直に、舞、謡、振りなどもするするとなだらかにするのがよい
  3. `そのような能をまた事細かに演ずるのは下手のわざである
  4. `これまた能のまずくなるところと知るがよい
  5. `よって、よい言葉や余情を求めるというのも劇的な筋立や山場がなくてはかなわぬ能にいたってのことである
  6. `素直な能においては、たとい幽玄を表現すべき人体の時に堅い言葉で謡おうとも、音曲の風合さえ確かならば差し支えあるまい
  7. `これすなわち能の手本と心得るべき事である
  8. `ただ、返す返すも、こうした条々をきわめ尽し、その上で鷹揚にするのでなければ能の庭訓も意味がない