一一(一五五)熊野参詣

現代語訳

  1. `どんどん先へ進むと岩田川に到着された
  2. `この川の流れを一度でも渡った者は、悪業、煩悩、過去の罪業がみな消えると言われているので、心強く思われた
  3. `熊野本宮・証誠殿の御前で静かに経を唱え、御山のほうを拝まれると、心も言葉も及ばない
  4. `広大な慈悲の霞は熊野山にたなびき、並びなき霊験あらたかな神明は音無川に姿を現している
  5. `法華経を修行するところには神仏が応える月が隈なく照り、六根を懺悔する庭には妄想の露ひとつない
  6. `どれもこれも頼もしいことばかりである
  1. `夜が更けて人が静まり、謹んで言葉を捧げていると、重盛殿がこの御前で
  2. `我が命を召して、後世をお助けください
  3. `と祈られたことが思い出されて哀れであった
  4. `特に、この熊野権現の本来の姿は阿弥陀如来であられる
  5. `衆生をお見捨てにならないという本願どおり、浄土へお導きください
  6. `と祈られた
  7. `とりわけ
  8. `故郷に残してきた妻子が安穏でありますように
  9. `と祈られたことが悲しかった
  10. `現世を避け、仏道に入られたが、哀れにも妄執はまだ尽きないようであった
  1. `夜が明けると、本宮から舟に乗り、新宮へ参られた
  2. `神倉神社を拝まれれば、大岩に松が高くそびえて、嵐は妄想の夢を破り、流れる水は清く、川の波が世の穢れを洗い流しているように思えた
  3. `飛鳥神社を伏し拝み、佐野の松原通り過ぎて、那智の御山に参拝した
  4. `三重にみなぎり落ちる滝の水は数千丈までよじ登り、観音の霊像は岩の上に現れて、まさに観世音菩薩の住まう補陀落山のごとくであった
  5. `霞の底には法華経を誦すの声が絶えず、釈尊が法華経を説いた霊鷲山とも言える景色だった
  6. `熊野権現が当山に仮の姿で現れて以来、我が国の者は身分を問わず、皆足を運び頭を垂れ、両手を合わせて、ご利益に預からないということがない
  7. `ゆえに僧侶が僧坊を建て並べ、出家者も俗人もたくさん集まってきた
  8. `寛和二年の夏頃、花山法皇が帝位をお譲りになってご出家なさり、九品の浄土に赴くために修行をされていた御庵室の旧跡には、昔を偲ぶように老木の桜が咲いていた
  1. `たくさんいる那智ごもりの僧たちの一人が、この三位中将維盛殿を都でよく見かけたと思しく、同行の者に
  2. `そこにおられる修行者を誰かと思っていたが、小松大臣重盛殿の嫡子・三位中将維盛殿でいらっしゃる
  3. `維盛殿がまだ四位少将であった安元二年の春頃、院の御所・法住寺殿で五十歳のお祝いがあったとき、父・重盛殿は内大臣左大将であられた
  4. `伯父・宗盛殿は中納言右大将で階下に着席されていた
  1. `そのほか、三位中将知盛殿、頭中将重衡殿をはじめ一門の殿上人がめでたい日を祝い、垣根のように並んで楽を演奏されている中から、この三位中将維盛殿が桜の花をかざして青海波を舞って登場されたときは、露に媚びた花の姿、風に翻る舞の袖、地を照らし天も輝くほどであった
  2. `建春門院殿が関白・藤原基房殿を使者として、衣をお与えになると、父の重盛殿が座を立ってこれを賜り、右の肩に掛けると、後白河法皇に拝礼をされた
  3. `これほど名誉なことも稀であった
  4. `そばにいた公卿や殿上人もどれほど羨ましいと思ったことだろうか
  1. `内裏の女房たちの間で
  2. `まるで深山木の中の山桃のよう
  3. `と言われた人である
  4. `今にも大臣の大将を期待されていた人と思っていたのに、今日はこのようにやつれ果てたお姿となってしまうなどとは、昔は想像もできなかった
  5. `時と共に移り変わるのが世の常とはいうものの、哀れなりことだ
  6. `と袖を顔に押し当て、さめざめと泣くと、那智ごもりの僧たちも、皆裏衣の袖を濡らした