一〇(一三五)一二駆

現代語訳

  1. `六日の夜半頃までは、熊谷直実と平山季重が搦手にいた
  2. `直実は子の小次郎直家を呼んで
  3. `この方面は難所だから、誰が一番乗りということもあるまい
  4. `そこでだ、土肥実平が使命を受けて向かっている播磨路に向かい、一の谷の先陣を駆けよう
  5. `と言うと、直家は
  6. `そうしましょう
  7. `私もそのように申したいと思っておりました
  8. `ではすぐにも攻めください
  9. `と言った
  10. `直実は
  11. `ただし、この方面は平山季重も任されている
  12. `あの男は乱戦を好まない
  13. `平山の動向を探ってこい
  14. `と下人に偵察に行かせた
  1. `案の定、季重は直実より先に軍を調えており
  2. `他人のことはわからないが、おれだけは、一歩だって退くものか、退くものか
  3. `と独り言を呟いていた
  4. `下人が馬に餌を与えながら
  5. `憎たらしい馬の長飯だ
  6. `と言って鞭を打つと、季重は
  7. `そんなことするな
  8. `その馬の名残も今夜限りだ
  9. `と言って発った
  1. `下人が駆け戻って直実にその由を告げると
  2. `やはりそうか
  3. `と言って、すぐに発った
  4. `熊谷直実のその夜の装束は、褐の直垂に赤革威の鎧を着、紅の母衣を懸け、近太栗毛という名高い馬に乗っていた
  5. `子の直家は、おもだかの葉模様を一回染めした直垂に押縄目の鎧を着て、西楼という白月毛の馬に乗っていた
  6. `旗差は、麹塵の直垂に黄色く染め返した小桜革の鎧を着て、黄駱毛の馬に乗っていた
  7. `主従三騎は、下りようとする谷をば左に見て、右へ馬を歩ませていくと、普段人も通らない田井畑という古道を経て、一の谷の波打ち際に出た
  1. `一の谷の近くに塩屋というところがある
  2. `まだ夜が深いので、土肥次郎実平は七千余騎で控えていた
  3. `直実は、夜に紛れて波打ち際からそこをさっと通り過ぎ、一の谷の西の木戸口に押し寄せた
  4. `そのときもまだ夜が深かったので、城郭の中は静まり返って音もせず、味方は一騎も続かない
  1. `直実は、直家に
  2. `我も我もと先駆けようとする者は多いだろう
  3. `ここまで来たからには、夜の明けるを待ってこの辺りに控えているかもしれない
  4. `気持ちが逸っているのはおれひとりだとは思うなよ
  5. `さあ、名乗ろう
  6. `と盾の垣根のそばに寄ると、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声を張り上げて
  7. `武蔵国の住人・熊谷次郎直実、子息・小次郎直家、一谷の先陣である
  8. `と名乗った
  1. `城郭の中の者はこれを聞き
  2. `よいよい、静かにしていろ
  3. `敵の馬を疲れさせろ
  4. `矢をすべて射させてしまえ
  5. `と、かまう者は一人もいなかった
  1. `少しして、後ろから武者が二騎やって来た
  2. `誰だ
  3. `と問うと
  4. `季重
  5. `と答える
  6. `問うのは誰だ
  7. `直実だ
  8. `熊谷殿はいつからここにいるのか
  9. `おれは昨夜からだ
  10. `と答えた
  1. `おれもすぐに続いて寄せるつもりだったのだが、成田五郎助忠にだまされて、今まで遅れてしまったのだ
  2. `成田が
  3. `死ぬときは共に死のう
  4. `と約束したのに、ここへ向かうる途中
  5. `平山殿、あまり先駆けに逸らないほうがよい
  6. `合戦の先陣を駆けるというのは、味方の勢を後ろにつけて進んでこそ、高名・不覚を人に知ってもらえる
  7. `あの大勢の中へただ一騎駆け込んで討たれでもしたら、何になるというのか
  8. `と言うので、もっともだと思い、小さな坂があったのでそこへ上り、下るときに馬の首を引き立て、味方の勢を待っていると、成田も続いてやって来た
  9. `馬を並べて軍の話でもするのかと思えば、そうではなく、おれの方を素っ気なげに見て、わきをさっと通り過ぎるので
  10. `ああ、この男はおれをだまして先駆けるつもりだな
  11. `と思って、五六段ほど先へ行ったところで、あの馬はこの馬に劣ると目をつけて、一鞭打って追いついて
  12. `卑怯にも、おれのような者をだますのか
  13. `と言って、置き去りにしたから、今頃は遥か後方にいるだろう
  14. `もうおれの背中は見えないだろう
  15. `と語った
  1. `東の空がしだいに明けてきたが、直実と季重は五騎で控えていた
  2. `直実は先に名乗ったが、季重に聞かせるために再度名乗ろうと思ってか、盾の垣根のそばに馬を寄せ、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声を張り上げて
  3. `さて先ほども名乗った武蔵国の住人・熊谷次郎直実、子息・小次郎直家、一の谷の先陣だ
  4. `と名乗った
  1. `城郭の中ではこれを聞いて
  2. `さあ、一晩中名乗っている熊谷親子を捕えてくるか
  3. `と進み出た平家の侍は次のとおり
  4. `越中次郎兵衛・平盛嗣、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清、後藤内定経を先鋒として主立った兵二十余騎が、木戸を開いて駆け出た
  5. `季重は滋目結の直垂に緋威の鎧を着、二引両の母衣を懸け、目糟毛といふ聞ゆる名馬に乗っていた
  6. `旗差は黒革威の鎧を着、兜を後ろにずらして被り、錆月毛の馬に乗っていた
  1. `季重は、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声を張り上げて
  2. `保元・平治、二度の合戦に先駆けて名乗りを上げた武蔵国の住人・平山武者所季重
  3. `と名乗って、旗差と二騎、馬の鼻を揃え、雄叫びを上げて駆け込んだ
  1. `直実が駆ければ季重が続き、季重が駆ければ直実が続いた
  2. `互いに相手に劣るまいと抜きつ抜かれつ揉み合って、火が出るほどに攻め立てた
  3. `平家の侍たちは、手ひどく駆け回られ、敵わないと思ったか、城郭の内へさっと退却し、敵を閉め出して防いだ
  4. `直実は馬が太腹を射られて跳ねたので、脚を飛び越えて下り立った
  5. `子・直家も
  6. `生年十六歳
  7. `と名乗って、盾で作った垣根に、馬の鼻がくっつくほど近づいて戦ったが、左肘を射らせ、同じように馬から下り、父と並んで立った
  1. `直実は
  2. `どうした直家、怪我したのか
  3. `はい
  4. `隙間を作らないように鎧を揺すれ
  5. `射貫かれるな
  6. `錣を傾けろ
  7. `内兜は射られるな
  8. `と教えた
  1. `直実は鎧に立った矢をかなぐり捨て、城郭の内を睨み、大声を張り上げて
  2. `去年の冬に鎌倉を発ってから、命を頼朝殿に捧げ、屍を一の谷の波打ち際に曝そうと心に決めた直実だ
  3. `去る室山・水島の二度の合戦に勝って名乗りを上げた越中次郎兵衛・平盛嗣は、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清はいないか、平教経殿はおいでか
  4. `高名も不覚もそうした敵があってこそだ、やみくもに戦っても手柄にはならん
  5. `さあ、熊谷父子にかかってこい、戦おうじゃないか
  6. `と罵った
  1. `越中次郎兵衛盛嗣は、好みの装束である、紺村濃の直垂に赤威の鎧を着、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていたが、城郭の内でこれを聞いて、熊谷父子を見つけて近づいた
  2. `熊谷父子は突破されないように間を開けずに立ち並び、太刀を抜いて額に当て、後ろへは一歩も引かず、さらに前へと進んだ
  3. `盛嗣はこれを見て敵わないと思ってか、退却しようとした
  1. `直実は
  2. `おいどうした、越中次郎兵衛盛嗣ではないか
  3. `我らのどこが気に入らないんだ
  4. `馬を並べて組もうじゃないか
  5. `と言ったが、盛嗣は
  6. `そうではない
  7. `と言って退却した
  1. `上総五郎兵衛忠光はこれを見て
  2. `汚い奴らのやり方だ
  3. `とっ組み合おうとしているのに、向かっていかないとはどういうことだ
  4. `と今にも駆け出て組もうとすると、盛嗣が忠光の鎧の袖を引き
  5. `主君にとっての重要な合戦はこれが最後ではない
  6. `挑発に乗ってはいけない
  7. `と制止されると、仕方なく組むのをやめた
  1. `その後、直実は乗替えの馬に乗ってわめきながら駆けた
  2. `季重も熊谷父子が戦っている間に、馬を休ませ、彼らの後に続いた
  3. `平家方には馬に乗った武者が少なく、櫓の上の兵たちは
  4. `ただ射取れ、射取れ
  5. `と次々に激しく矢を放ったが、敵は小勢なので、味方の大勢に紛れて矢に当たらない
  6. `馬を並べて、組め組め
  7. `と下知したが、平家の馬は乗るばかりでほとんど餌を与えない
  8. `舟にずっと立っていたので、馬たちはみな彫刻のようになっていた
  9. `一方、直実や季重が乗った馬は餌を十分に与えて鍛え上げた大馬で、一鞭当てれば皆蹴倒されるような勢いなので、並べて組む武者は一騎もなかった
  1. `季重はたいへんかわいがっている旗差を討たれて、心穏やかでなく、城郭の内へ駆け入り、すぐにその敵の首取って出てきた
  2. `熊谷父子もたくさん分捕った
  3. `直実は先に寄せたが、木戸が開かなかったので駆け込めなかった
  4. `季重は後から寄せたが木戸が開いたので駆け込んだのである
  5. `そうして直実と季重が、一駆け二駆けを競うことになった