一四(一〇八)維盛都落

現代語訳

  1. `越中次郎兵衛・平盛嗣は、弓を脇に挟み、宗盛殿の御前に参って
  2. `摂政・藤原基通殿が途中から引き返されたのをお止めしなければ
  3. `としきりに進上したが、人々に制止されて仕方なくあきらめた
  4. `小松三位中将・平維盛殿は、日頃から覚悟はしていたが、いざとなると悲しかった
  1. `維盛殿の北の方というのは、故中御門新大納言・藤原成親殿の娘で、孤児でいらしたが、その顔は露に濡れた桃の花の咲くがごとく、紅をつけた頬に艶やかなまなざし、しなやかな髪は柳の風に乱れるような装いで、他にはいないほどの美人でいらした
  2. `六代御前いう十歳になられる若君と、妹で八歳になる姫君がおられた
  3. `彼らも他の人々に残されまいと慕われると、維盛殿は
  4. `いつも言っていたように、一門と共に西国の方へ落ちて行くのだ
  5. `どこまでも連れて行きたいが、途中にも敵が待ち構えているだろうから、簡単には通り抜けられないだろう
  6. `たとえ私が討たれたと聞いても、出家などは決してしてはなりませんぞ
  7. `そのわけは、どのような人にも連れ添って、あの子たちを育ててほしいからです
  8. `そなたに情けをかけてくれる人はきっといるはずだから
  9. `とあれこれ慰められたが、北の方は何も返事をせず、衣を被って臥せられた
  1. `維盛殿が立ち上がろうとすると、北の方は袖にすがり
  2. `都には、父もなし、母もなし、あなたに捨てられた後、誰かと結ばれようなどと
  3. `どのような人にも連れ添え
  4. `などとお聞きするのが恨めしい
  5. `前世の契りがあって人が情をかけてくださるとしても、誰でも情をかけるなどということはありません
  6. `どこまでも一緒に、同じ野原の露と消え、ひとつの底の藻屑となっても
  7. `と約束したのに、それでは夜の寝覚めの蜜の言葉は、あれはみな偽りだったのですか
  8. `せめて私ひとりならばなんとかし、捨てられる身の憂さを思い知って留まりましょう
  9. `しかしこの子たちを、誰に託し、どうせよと思われるのですか
  10. `お留めになるとは恨めしい
  11. `と、恨んだり慕ったりされると、維盛殿は
  12. `そなたは十三歳、私は十五歳より結ばれて、共に火の中へ入り、水の底へ沈み、限りある命を別れ道までは後れ先立つまいと思ってきました
  13. `今日はこのような物憂いありさまで合戦の陣に赴くので、連れて行き、行方も知らぬ旅の空でつらい目をお見せするのは自分としても情けないのです
  14. `その上、今回は満足な準備もしていません
  15. `どこの浦にか安心できる場所が見つかったら、そこから迎えに人をよこしましょう
  16. `と思い切って発たれた
  1. `中門の廊下に出て、鎧を取って着、馬を引き寄せさせてまさに乗ろうとしたとき、若君と姫君走り出て、父の鎧の袖や草摺にしがみつき
  2. `父上、いったいどこへ行かれるのですか
  3. `私も参ります
  4. `私も行きます
  5. `慕って泣かれると、つらい世の切れない絆と思われて、維盛殿はどうしようもなさげに見えた
  1. `弟の新三位中将資盛、左中将清経、同・少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛、兄弟五騎、馬に乗りながら門の内へ入り、庭に控え、大声を張り上げて
  2. `行幸は遥か遠くまで進まれたというのに、どうしてまだ出立されないのか
  3. `と声々に言われたので、維盛殿は馬に跨って出られたが、引き返し縁側へ寄せ、弓の筈で御簾をさっとかき上げて
  4. `あれを見てくれ
  5. `我が子たちがあまりに慕いすがるのをなんとか言い聞かせようと、それでずいぶん時間を取ってしまったのだ
  6. `と言い終わらないうちにほろほろと泣かれると、庭に控えておられた人々も皆鎧の袖を濡らされた
  1. `ここに維盛殿の年来の侍に斎藤五宗貞、斎藤六宗光という、兄は十九歳、弟は十七歳になる者がいた
  2. `維盛殿の馬の左右に取りついて
  3. `どこまでもお供いたします
  4. `と言うと、維盛殿は
  5. `お前たちの父・長井斎藤別当実盛が北国へ下ったとき、お前たちが
  6. `供をする
  7. `と言うのを
  8. `思うところがある
  9. `と言って留め置き、ついに北国で討ち死にしたのは、百戦錬磨でこうなることをあらかじめ悟っていたからだ
  10. `息子・六代を都に残して行くにも、安心して託せる者がいない
  11. `どうかこの無理をわかって留まってくれ
  12. `と言われると、二人はやむなく、涙をこらえて留まった
  1. `北の方は
  2. `長年連れ添って、これほ薄情な人だとは少しも思っていませんでした
  3. `と言って衣を被って臥せられた
  4. `若君、姫君、女房たちは御簾の外まで転び出て、人が聞くのもはばからず、声を限りに泣き叫ばれた
  5. `その声々は耳の底に染みついて、西海の立つ波、吹く風の音までも、この泣き声を聞くように思われた
  1. `平家が都を落ちるとき、六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下、人々の屋敷二十余箇所、従う者たちの屋敷、京白河に四五万軒の民家に火をかけて一度にすべてを焼き払った