(八四)葵前

現代語訳

  1. `何より悲しいことはといえば、中宮のそばに仕えている上童が思いがけず、帝のそばに召されることがあった
  2. `誠実でご愛情も深かったので、世間並みのかりそめごとでなく、主人である女房も女童を召し使わず、却って女童を主人のようにもてなされた
  1. ``当時、謡い詠まれた言葉がある
  2. ``男を生んでも喜歓するな
  3. ``女を生んでも悲酸するな
  4. ``男は諸侯にすらなれない
  5. ``女は妃になれる
  6. `と長恨歌にあるように、后に立つことができる
  7. `じつに幸せなことである
  1. `却ってこの女童が、女御、后となられ、帝の母、女院とも仰がれることになるのだろうか
  2. `と言われ、その名を
  3. `葵の前
  4. `といったので、内々には
  5. `葵の女御
  6. `などとささやき合われた
  1. `高倉天皇はこれをお聞きになり、その後は召すことはなかった
  2. `これは寵愛が尽きたのではなく、ただ世間の悪口を気にされたからである
  3. `それゆえ、いつも物思いに耽られがちで、食事もあまりなさらない
  4. `御気分が思わしくないと常は寝所でお入りになっていた
  1. `そのときの関白・松殿基房殿がこの由を聞かれ、お慰めしようとて急いで参内し
  2. `それほど御心を占めておられるなら、何の不都合がございましょう
  3. `そのの女房を召されたらよいでしょう
  4. `身分をお気になさる必要もありません、この基房がすぐ養女にします
  5. `と奏聞すると、高倉天皇は
  6. `さて、そちの考え申すことも一理あるし、退位してからならばそのような例もある
  7. `しかし、現に在位しているときそのようなことをしたら、後に謗られることになろう
  8. `とお聞き入れにならなかった
  9. `基房殿もしかたなく、涙をこらえて退出された
  1. `その後、高倉天皇は、特に香りの深い緑色の鳥の子紙に、古き歌であるが、思い出され、このように記された
  2. `忍んでも色に出てしまった我が恋は、物思いかと人が問うまで
  3. `冷泉少将・藤原隆房殿がこれを賜り、葵の前に与えられると、これを取って懐に入れ、顔を赤らめ
  4. `体調がすぐれません
  5. `と言って里へ帰り、臥せっていたが、五・六日してついに息を引き取った
  6. `君の一日の恩寵のために、妾の生涯の身を誤る
  7. `とはこのようなことを言うのだろうか
  1. `昔、唐の太宗皇帝が鄭仁基の娘を後宮に入れようとなさったところ、臣下の魏徴が
  2. `あの娘は既に陸氏と婚約している
  3. `と諫めると、後宮に入れるのを取りやめられたことと、帝の御心は少しも違わない
  4. `と人は言った