三五四源氏揃
    
     現代語訳
     
      - `蔵人左衛門権佐・藤原定長は、今回のご即位が無事に行われた様子を厚紙十枚ほどに書いて清盛入道の北の方・八条二位殿へ届けると、笑みを浮かべて喜ばれた
 
      - `このようにめでたいこともあったが、世間はまだ平穏には遠かった
 
     
     
      - `その頃、後白河法皇の第二皇子に、加賀大納言季成卿の娘を母とする以仁王という方がおられた
 
      - `三条高倉におられたので、高倉宮と呼ばれた
 
     
     
      - `去る永万元年十二月十五日の早朝、十五歳で、近衛河原の大宮御所において密かに元服された
 
      - `筆が達者で、才覚にも優れておられたので、皇位に即かれるはずであったが、亡き建春門院殿の嫉妬によって軟禁の身となられた
 
      - `花の下の春の遊びでは筆をふるって自ら詩を書き、月の前の秋の宴には玉笛を吹いて自ら雅音を奏でられた
 
      - `こうして歳月を過ごされ、治承四年には三十歳になられた
 
     
     
      - `その頃、近衛川原にいた源三位入道・源頼政が、ある夜密かにこの宮の御所に参上し、恐ろしいことを口にした
 
      - `そもそも君は天照大神四十八世の御子孫であり、神武天皇から数えて七十八代となられます
 
      - `ならば、皇太子にも立ち、皇位にも即かれるべきでありますのに、いまだ皇子でおられることを情けないとお思いにはなりませんか
 
      - `一刻も早く謀反を起こされ、平家を滅ぼし、期限も知れず鳥羽殿で軟禁されておられる後白河法皇をお慰めし、君も即位なさいませ
 
      - `これこそ究極の御孝行ですぞ
 
      - `もし思い立たれ、謀反の令旨をお与えくださいましたら、喜んで馳せ参じる源氏たちは日本中に大勢おります
 
      - `と述べ続けた
 
     
     
      - `まず京の都には、出羽前司光信の子ら、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能
 
      - `熊野には、亡き六条判官為義の末子が十郎義望と名を変え隠れております
 
      - `摂津国には多田蔵人行綱がおりますが、この者は新大納言・藤原成親卿の謀反の折、味方に回りながら寝返った者ですから信用はできません
 
      - `しかし、その弟に、多田次郎朝実、手島冠者高頼、太田太郎頼基がおります
 
      - `河内国には、武蔵権守入道・源義基、子息・石川判官代義兼
 
      - `大和国には、宇野七郎親治の子ら、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治
 
      - `近江国には、山本冠者義定・義経父子、義定の子・柏木義兼と錦織冠者義高
 
      - `美濃や尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、その子・太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子・太郎重行
 
      - `甲斐国には、逸見冠者義清、その子・太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光、同じく小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定
 
      - `信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子・四郎義信、亡き帯刀先生・源義賢の次男・木曽冠者義仲
 
      - `伊豆国には、流人前右兵衛佐・源頼朝
 
      - `常陸国には、信太三郎先生義教、佐竹冠者正義、その子・太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎高義、五郎義季
 
      - `陸奥国には、故左馬頭義朝の末子・九郎冠者・源義経
 
      - `この者たちは皆、六孫王・源経基の末裔で、多田新発意・源満仲の子孫です
 
     
     
      - `朝敵を征伐し、宿望を遂げることにおいては、源平に優劣はありませんでしたが、保元・平治の乱以降は雲泥の差となって、交流を結ぶこともできず、主従の関係以上に劣ってしまいました
 
      - `国では国司に従い、荘園では役人に召し使われ、公用・雑用に駆り立てられて、穏やかに暮らすことできません
 
     
     
      - `よくよく世間の様子を見ておりますと、表面上は従っているようですが、内心では平家を嫉んでいない者はないように思えます
 
      - `君がもし思い立たれて、令旨をお与えくださいましたならば、日本中の源氏たちは昼夜を分かたず馳せ参じ、平家を滅ぼすのに長い時間はかかりますまい
 
      - `この私も年をとってはおりますが、若い子供たちも大勢おりますので、引き連れて参上します
 
      - `と言った
 
     
     
      - `以仁王が
 
      - `さてどうしたらよいものか
 
      - `思い悩まれて、しばらくは御承知もされずにいたときのこと、阿古丸大納言・藤原宗通卿の孫、備後前司・季通の子で少納言伊長という者がおり、人相見に優れていたので、人々は
 
      - `相少納言
 
      - `と呼んでいた
 
      - `伊長は以仁王を見参らせ
 
      - `帝の位に即かれる相がございます
 
      - `決して天下のことおあきらめになりませぬよう
 
      - `と述べた上に、頼政入道もそのように勧めていたので
 
      - `これは間違いない
 
      - `天照大神のお告げかもしれない
 
      - `と、決心をされた
 
     
     
      - `まず新宮十郎義盛を召して蔵人になされた
 
      - `義盛は行家と改名し、令旨の使者として東国へ向かわされた
 
     
     
      - `四月二十八日に都を発って、近江国から、美濃や尾張の源氏たちに次々連絡をとり、五月十日、伊豆国の北条に着いて、流人前兵衛佐・源頼朝殿に令旨を取り出して渡した
 
      - `信太三郎先生義教は兄なので、令旨を与えようと常陸国信太の浮島へ下る
 
      - `木曽冠者義仲は甥なので、令旨を与えようと山道を向かった
 
      - `当時の熊野別当・藤原湛増は平家に大きな恩を受けている身だったが、どうやって聞き出だしたのか
 
      - `新宮十郎義盛が以仁王の令旨を賜って謀反を起こそうとしている
 
      - `那智・新宮の者どもはきっと源氏の味方をするに違いない
 
      - `しかし、おれは平家の御恩をたくさん受けている身、どうして背くことができよう
 
      - `矢一筋でも射かけて後、都へ子細を伝えに行こう
 
      - `と、甲冑で武装した一千余人が新宮の湊へ向かった
 
     
     
      - `新宮には、鳥井法眼、高坊法眼、侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲、那智には、執行法眼以下総勢二千余人、鬨の声を上げ、矢合わせをして
 
      - `源氏はこう射たぞ
 
      - `平家はこう射たぞ
 
      - `と互いに矢叫びの声は絶えることなく、鏑矢の唸りも鳴り止まず、三日ほど合戦は続いた
 
      - `腕に覚えのある法眼湛増も、家臣や郎等が多く討たれ、自分も傷を負い、命からがら本宮へ引き上げた