(一九〇)往生

原文

  1. `さて武士共の荒けなきに捕はれて上り候ひしほどに播磨国明石浦とかやに着いてちと微睡みたりし夢に昔の内裏には遥かに勝りたる所に先帝を始め参らせて一門の人々皆ゆゆしげなる礼儀にて候ひしを都を出でて後未だかかる所を見ず
  2. `これをば何処ぞ
  3. `と問ひ候ひしかば二位尼と覚え候ひて
  4. `龍宮城
  5. `と答へ候ひし時
  6. `めでたかりける所かな
  7. `これには苦はなきか
  8. `と問ひ給ひしかば
  9. `龍畜経の中に見えて候ふ
  10. `よくよく後世を助け給へ
  11. `と申すと覚えて夢覚めぬ
  12. `その後殊に経読み念仏してかの御菩提を弔ひ奉る
  13. `これ皆六道に違はじとこそ覚え候へ
  14. `と申させ給へば法皇仰せなりけるは
  15. `異国の玄奘三蔵は悟りの前に六道を見我が朝の日蔵上人は蔵王権現の御力によつて六道を見たりとこそ承れ
  16. `まのあたり御覧ぜられけるこそ有難う候へ
  17. `とぞ御涙を流させ給へば供奉の人々も皆袖をぞ濡らされける
  18. `女院も御涙を流させ給へば付き参らせたる女房も袖をぞ濡らされける
  1. `さるほどに寂光院の鐘の声今日も暮れぬとうち知られ夕陽西に傾けば御名残尽きず思し召されけれども御涙を押さへて還御成らせ給ひけり
  2. `女院はいつしか昔をや思し召し出ださせ給ひけん忍び敢へぬ御涙に袖の柵塞き敢へさせ給はず御後を遥かに御覧じ送つて還御も漸う延びさせ給へば御本尊に向かはせ給ひて
  3. `天子聖霊一門亡魂成等正覚頓証菩提
  4. `と祈り申させ給ひけり
  1. `昔はまづ東に向かはせ給ひて伊勢大神宮正八幡宮伏し拝ませおはしまし
  2. `天子宝算千秋万歳
  3. `とこそ祈り申させ給ひしに今は引き替へて西に向かはせ給ひて
  4. `過去聖霊必一仏土へ
  5. `と祈らせ給ふこそ悲しけれ
  1. `女院は御障子に二首の歌をぞ遊されける
  2. `此ごろはいつならひてかわがこころ大宮人のこひしかるらん
  3. `いにしへも夢になりにし事なれば柴のあみどのひさしからしな
  4. `また御幸の御供に候はれける徳大寺左大臣実定公御庵室の柱に書き付けられけるとかや
  5. `いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺の里
  6. `来し方行く末の嬉しう辛かりし事共思し召し続けて御涙に咽ばせ給ふ折節山時鳥二声三声音信れて通りければ女院
  7. `いざさらば涙くらべんほととぎす我もうき世にねをのみぞなく
  1. `抑も壇浦にて生きながら囚はれし二十余人の人々或いは首を刎ねて大路を渡され或いは妻子に離れて遠流せらる
  2. `されども四十余人の女房達の御事は沙汰にも及ばず親類に従ひ所縁についてぞましましける
  3. `忍ぶ思ひは尽きせねど嘆きながらもさてこそ過ごされけれ
  4. `上は玉の簾の内までも風閑かなる家も無く下は柴の樞の下までも塵治まれる宿も無し
  5. `枕を並べし妹背も雲井の余所にぞ成り果つる
  6. `養ひ立てし親子も行方知らず別れけり
  7. `これは入道相国上は一人をも恐れず下は万民をも顧みず死罪流刑解官停任思ふ様に掌に行はれしが致すところなり
  8. ``父祖善悪必及子孫
  9. `といふ事疑ひなしとぞ見えたりける
  1. `かくて女院は空しう年月を送らせ給ふほどに例ならぬ御心地出で来させ給ひてうち臥させ給ひしが日比より思し召し設けたる御事なれば仏の御手の五色の糸控へつつ
  2. `南無西方極楽世界教主弥陀如来本願過たず浄土へ導き給へ
  3. `とて御念仏ありしかば大納言典侍局阿波内侍左右に侍ひて今を限りの御名残惜しさに声々に喚き叫び給ひけり
  4. `御念仏の声漸う弱らせましましければ西に紫雲棚引き異香室に満ちて音楽空に聞ゆ
  5. `限りある御事なれば建久二年如月中旬に一期つひに終らせ給ひぬ
  6. `后の宮の御位より片時も離れ参らせずして候はれしかば別れ路の御時もやる方なくぞ思はれける
  7. `この女房達は昔の縁も皆枯れ果てて寄る方もなき身なれども折々の御仏事営み給ふぞ哀れなる
  8. `つひには龍女が正覚の跡を追ひ韋提稀夫人の如くに皆往生の素懐を遂げけるとぞ承る

書下し文

  1. ``父祖の善悪必ず子孫に及ぶ