九九木曾願書

原文

  1. `木曾殿宣ひけるは
  2. `平家は大勢であんなれば軍は定めて懸合の軍にてぞあらんずらん
  3. `懸合の軍といふは勢の多少による事なれば大勢嵩に懸けて取り籠められては叶ふべからず
  4. `まづ謀に白旗三十流先立て黒坂の上に打ち立てたらば平家これを見て
  5. `あはや源氏の先陣は向かうたるは
  6. `敵は案内者御方は無案内なり
  7. `この山は四方岩石であんなれば搦手よも廻らじ
  8. `暫し下り居て御方の勢待たん
  9. `とて砥浪山中にぞ下り居んずらん
  10. `その時義仲暫くあひしらふ体にもてないて日を待ち暮らし夜に入つて平家の大勢後ろの倶利迦羅谷へ追ひ落さん
  11. `とてまづ白旗三十流黒坂の上にぞ打ち立てたれば案の如く平家これを見て
  12. `あはや源氏の大勢の向かうたるは
  13. `取り籠められては叶ふまじ
  14. `敵は案内者御方は無案内なり
  15. `この山は四方巌石であんなれば搦手よも廻らじ
  16. `馬の草飼水便共によげなり
  17. `暫く下り居て馬休めん
  18. `とて砥浪山の山中猿馬場といふ所にぞ下り居たる
  1. `木曾は羽丹生に陣取つて四方をきつと見廻せば夏山の峰の緑の木の間より朱の玉垣仄見えて片殺作りの社あり
  2. `前に鳥居ぞ立つたりける
  3. `木曾殿国の案内者を召して
  4. `あれをば何処と申すぞ
  5. `いかなる神を崇め奉るぞ
  6. `と宣へば
  7. `あれこそ八幡にて渡らせ給ひ候へ
  8. `やがて八幡の御領で候ふ
  9. `と申す
  10. `木曾殿斜めならずに悦び手書に具せられたる大夫房覚明を召して
  11. `義仲こそ何となう寄すると思ひたれば幸ひに新八幡の御宝殿に近づき奉つて合戦を既に遂げんとすれ
  12. `さらんにとては且つは後代の為且つは当時の祈祷の為に願書を一筆参らせんと思ふはいかに
  13. `と宣へば覚明
  14. `然るべう候ふ
  15. `とて急ぎ馬より飛んで下り木曾殿の御前に畏る
  16. `覚明がその日の為体褐の直垂に黒糸威の鎧着て黒漆の太刀を帯き二十四差いたる黒保呂の矢負ひ塗籠籐の弓脇に挟み甲をば脱いで高紐に懸け箙の方立より小硯畳紙取り出で願書を既に書かんとす
  17. `あつぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける
  1. `この覚明はもと儒家の者なり
  2. `蔵人道広とて勧学院にぞ候ひける
  3. `出家して
  4. `最乗坊信救
  5. `とぞ名乗りける
  6. `常は南都へも通ひけり
  1. `一年高倉宮の園城寺へ入御の時山奈良へ牒状を遣はれけるに南都の大衆いかが思ひけんその返牒をばこの信救にぞ書かせける
  2. `清盛入道は平氏の糟糠武家の塵芥
  3. `と書いたりける
  1. `入道大きに怒つて
  2. `何条その信救めが浄海ほどの者を平氏の糠糟武家の塵芥と書くべきやうこそ奇怪なれ
  3. `急ぎその法師搦め捕つて死罪に行へ
  4. `と宣ふ間これによつて南都には堪へずして北国へ落ち下り木曾殿の手書して
  5. `大夫坊覚明
  6. `とぞ云はれける
  1. `その願書に曰く
  2. ``帰命頂礼八幡大菩薩日域朝廷之本主累世明君之曩祖也
  3. ``宝祚蒼生三身之金容三所之権扉
  1. ``爰頻年以来有平相国者
  2. ``管領四海悩乱万民
  3. ``是既仏法之怨王法之敵也
  1. ``義仲苟生弓馬之家纔継箕裘之塵
  2. ``彼暴悪思慮
  3. ``運於天道身於国家
  4. ``試起義兵退凶器
  5. ``然戦闘雖両家陣士卒未一致勇間怕区心処今一陣挙旗戦場忽拝三所和光之社壇
  6. ``機感純熟明也
  7. ``凶徒誅戮無
  8. ``欽喜翻涙渇仰染
  9. ``中曾祖父前陸奥守義家朝臣帰付身於宗廟之氏族名於八幡太郎来為其門葉者無不帰敬
  10. ``義仲為其後胤首年久
  1. ``今起此大功譬如嬰児貝巨海蟷螂斧龍車
  2. ``然為国為君而起
  3. ``全為身為家而不
  4. ``志之至神感在
  5. ``憑哉悦哉
  6. ``伏願冥顕加威霊神合力決勝一時退四方怨
  7. ``然則可丹祈叶冥慮玄鑑成加護先使一瑞相
  1. ``寿永二年五月十一日
  2. ``源義仲敬白
  3. `と書いて我が身をはじめ十三騎が上矢の鏑を抜き願書に取り副へて大菩薩の御宝殿にぞ納めける
  4. `頼もしきかな八幡大菩薩真実の志二つ無きをや遥かに照覧し給ひけん雲の中より山鳩三つ飛び来て源氏の白旗の上に翩翻す
  1. `昔神功皇后新羅を攻めさせ給ひし時御方の戦ひ弱く異国の軍強うして既にかうと見えし時皇后天に御祈誓ありしかば霊鳩三つ飛び来て御方の楯の面に顕れて異国の軍敗れにけり
  1. `またこの人々の先祖頼義朝臣貞任宗任を攻め給ひし時御方の戦ひ弱く凶賊の軍強くして既にかうと見えし時頼義朝臣敵の陣に向かつて
  2. `これは全く私の火にはあらず
  3. `神火なり
  4. `とて火を放つ
  5. `風忽ちに夷賊の方へ吹き覆ひ厨川の城焼け落ちぬ
  6. `その後軍敗れて貞任宗任滅びにけり
  1. `木曾殿かやうの先蹤を思し召し出でて急ぎ馬より下り甲を脱ぎ手水嗽をして今霊鳩を拝し給ひける心の内こそ頼もしけれ

書下し文

  1. ``帰命頂礼八幡大菩薩は日域朝廷の本主累世明君の曩祖なり
  2. ``宝祚を守らんが為蒼生を利せんが為三身の金容を現し三所の権扉を押し開き給へり
  1. ``ここに頻んの年より以来平相国といふ者あり
  2. ``四海を管領して万民を悩乱せしむ
  3. ``これ既に仏法の怨王法の敵なり
  1. ``義仲苟も弓馬の家に生れて僅かに箕裘の塵を継ぐ
  2. ``かの暴悪を案ずるに思慮を顧みるに能はず
  3. ``運天道に任せて身を国家に投ぐ
  4. ``試みに義兵を起して凶器を退けんとす
  5. ``然るを戦闘両家の陣を合はすといへども士卒未だ一致の勇を得ざる間まちまちの心怖れたる処に今一陣旗を挙ぐる戦場にして忽ちに三所和光の社壇を拝す
  6. ``機感の純熟明らかなり
  7. ``凶徒誅戮疑ひなし
  8. ``欽喜涙こぼれて渇仰肝に染む
  9. ``就中曾祖父前陸奥守義家朝臣身を宗廟の氏族に帰付して名を八幡太郎と号せしより以来その門葉たる者帰敬せずといふこと無し
  10. ``義仲その後胤として首を傾けて年久し
  1. ``今この大功を起すことたとへば嬰児の貝を以て巨海を測り蟷螂が斧を怒らかいて龍車に向かふが如し
  2. ``然りといへども国の為君の為にしてこれを起す
  3. ``全く身の為家の為にしてこれを起さず
  4. ``志の至り神感天に在り
  5. ``頼もしきかな悦ばしきかな
  6. ``伏して願はくは冥顕威を加へ霊神力を合はせて勝つ事を一時に決し怨を四方へ退け給へ
  7. ``然れば則ち丹祈冥慮に叶ひ玄鑑加護を成すべくばまづ一つの瑞相を見せしめ給へ
  1. ``寿永二年五月十一日
  2. ``源義仲敬つて白す