(八六)廻文

原文

  1. `入道相国かやうにいたく情なう当たり奉られたりけることをさすが空恐ろしうや思はれけん安芸厳島の内侍が腹に姫君の生年十七に成り給ふをぞ法皇へは参らせらる
  2. `当家他家の公卿多く供奉して偏に女御参りの如くにぞありける
  3. `上皇隠れさせ給ひて僅かに二七日だにも過ぎざるに然るべからず
  4. `とぞ人々内々は囁き合はれける
  1. `さるほどにその比信濃国に木曾冠者義仲といふ源氏ありと聞えけり
  2. `彼は故六条判官為義が次男故帯刀先生義方が子なり
  3. `父義方は去んぬる久寿二年八月十二日鎌倉の悪源太義平が為に誅せらぬ
  4. `その時義仲二歳なりしを母抱へて泣く泣く信濃へ越え木曾中三権守兼遠が許に行きて
  5. `これいかにもして育てて人に成して見せよ
  6. `と云ひければ兼遠かひがひしう受け取りて二十余年が間養育す
  7. `漸う長大するままに力も人に勝れて強く心も並びなく剛なりけり
  8. `馬の上徒立ち射弓箭打物取つてはすべて上古の田村利仁余五将軍致頼保昌先祖頼光義家朝臣といふともこれにはいかでか勝るべき
  9. `とぞ人申しける
  1. `木曾ある時傅の兼遠を呼うで
  2. `抑も兵衛佐頼朝は東八箇国を討ち従へて東海道より攻め上り平家を追ひ落さんとすなり
  3. `義仲も東山北陸両道を従へて今一日も先に平家を滅ぼしてたとへば日本国に二人の将軍と云はればや
  4. `と仄めかしければ兼遠大きに畏り悦んで
  5. `その料にこそ君をばこの二十余年まで養育し奉り候へ
  6. `かやうに仰せらるるこそ八幡殿の御末とも覚えさせましませ
  7. `とてやがて謀反を企つ
  1. `常は乳母の中三に具せられて都へ上り平家の人々の振舞ふ有様をも見窺ひけり
  2. `十三の歳元服しけるにもまづ八幡へ参り通夜して
  3. `我が四代祖父義家朝臣はこの御神の御子と成りて八幡太郎義家と号しき
  4. `且つはその跡を追ふべし
  5. `とて御宝前にしてやがて髻取り上げ
  6. `木曾次郎義仲
  7. `とこそ付いたりけれ
  1. `兼遠
  2. `まづ廻文候ふべし
  3. `とて信濃国には根井小弥太滋野行親を語らふに背く事なし
  4. `これを始めて信濃一国の兵共皆従ひ付きにけり
  5. `上野国には田子郡の兵共父義方が誼にて皆従ひ付きにけり
  6. `平家の末になりぬる折を得て源氏年来の素懐を遂げんとす