(八三)紅葉

原文

  1. `人の思ひつき奉る事は延喜天暦の御門と申すともおそらくはこれにはいかでか勝らせ給ふべき
  2. `とぞ人申しける
  3. `大方賢王の名を揚げ仁徳の行を施させまします事も君御成人の後清濁を分かたせ給ひての上の御事にてこそあるに無下にこの君は未だ幼主の御時より性を柔和に受けさせおはします
  1. `去んぬる承安の比ほひ御在位の初めつ方御年十歳ばかりにも成らせおはしましけんあまりに紅葉を愛でせさせ給ひて北の陣に小山を築かせ櫨鷄冠木の色美しう紅葉たるを植ゑさせて紅葉の山と名付けて終日に叡覧あるになほ飽き足らせ給はず
  2. `然るをある夜野分はしたなう吹きて紅葉を皆吹き散らし落葉頗る狼藉なり
  3. `殿守の供の宮つ子朝清めすとてこれを悉く掃き捨ててけり
  4. `残れる枝散れる木の葉をば掻き集めて風凄まじかりける朝なれば縫殿の陣にて酒温めて食べける薪にこそしてけれ
  5. `奉行蔵人行幸より先にと急ぎ行きて見るに跡形なし
  6. `いかに
  7. `と問へば然々と云ふ
  8. `あなあさまし
  9. `さしも君の執し思し召されつる紅葉をかやうにしつる事よ
  10. `知らず汝等禁獄流罪にも及び我が身もいかなる逆鱗にか預らんずらん
  11. `と思はじ事なう案じ続けて居たりける処に主上いとどしく夜の大殿を出ださせ給ひも敢へず彼処へ行幸成りて紅葉を叡覧あるに無かりければ
  12. `いかに
  13. `と御尋ねありけり
  14. `蔵人何と奏すべき方はなし
  15. `ありのままに奏聞す
  16. `天気殊に御快げにうち笑ませ給ひて
  17. ``林間暖酒焼紅葉
  18. `といふ詩の心をばさればそれらには誰が教へけるぞや
  19. `優しうも仕つたるものかな
  20. `とて却つて叡感に預かつし上は敢へて勅勘なかりけり
  1. `また安元の比ほひ御方違の行幸のありしにさらでだに鶏人暁唱ふ声明王眠りを驚かすほどにもなりしかばいつも御寝覚めがちにてつやつや御寝もならざりけり
  2. `況や冴ゆる霜夜の烈しきには延喜の聖代
  3. `国土の民どもがいかに寒かるらん
  4. `とて夜の大殿にして御衣を脱がせ給ひける事などまでも思し召し出でて我が帝徳の至らぬ事をぞ御嘆きありける
  5. `やや深更に及んでほど遠く人の叫ぶ声しけり
  6. `供奉の人々は聞きもつけられず主上は聞し召して
  7. `只今叫ぶ者は何者ぞ
  8. `あれ見て参れ
  9. `と仰せければ上臥ししたる殿上人上日の者におはせつれば走りて尋ねけるにある辻にあやしの女童の長持の蓋提げたるが泣くにてぞありける
  10. `いかに
  11. `と問へば
  12. `主の女房の院の御所に候はせ給ふがこのほどやうやうにして為立てられつる衣を持つて参るほどに只今男の二三人参で来て奪ひ取りて罷りぬるぞや
  13. `今は御装束があらばこそ御所にも候はせ給はめ
  14. `またはかばかしう立ち宿らせ給ふべき親しき御方もましまさず
  15. `この事思ひ続くるに泣くなり
  16. `とぞ云ひける
  1. `さてかの女童を具して参りこの由奏聞しければ主上聞し召して
  2. `あな無慙
  3. `何者の為業にてかあるらん
  4. `とて龍顔より御涙を流させ給ふぞ忝き
  1. `尭の代の民は尭の心の素直なるを以て心とする故に皆素直なり
  2. `今の代の民は朕が心を以て心とするが故に奸しき者朝にありて罪を犯す
  3. `これ我が恥にあらずや
  4. `とぞ仰せける
  1. `さるにても取られつらん衣は何色ぞ
  2. `と仰せければ
  3. `然々の色
  4. `と奏す
  1. `建礼門院の未だ中宮にて渡らせ給ふ時なり
  2. `その御方へ
  3. `さやうの色したる御衣や候ふ
  4. `と御尋ねありければ先のより遥かに色美しきが参りたるを件の女童にぞ賜はせける
  5. `未だ夜深しまたさる目にもぞ逢ふ
  6. `とて上日の者を数多付けて主の女房の局まで送らせましましけるぞ忝き
  7. `さればあやしの賤の男賤の女に至るまでただこの君千秋万歳の宝算をぞ祈り奉る

書下し文

  1. ``林間に酒を暖めて紅葉を焼く