一〇(七六)文覚被流

原文

  1. `折節御前には妙音院太政大臣御琵琶遊ばし朗詠めでたうせさせおはします
  2. `按察使大納言資方卿拍子取つて風俗催馬楽歌はる
  3. `子息右馬頭資時四位侍従盛定和琴掻き鳴らして今様とりどり歌はれけり
  4. `玉の簾錦の帳の内までもさざめき渡つてまことに面白かりければ法皇も付歌せさせおはします
  5. `それに文覚が大音声出で来て調子も違ひ拍子も皆乱れにけり
  1. `何者ぞ
  2. `狼藉なり
  3. `素首突け
  4. `と仰せ下さるるほどこそありけれ
  1. `院中の逸り男の者共我先にと進み出ける中に資行判官といふ者進み出で
  2. `何条子細を申すぞ勅諚であるぞ罷り出でよ
  3. `と云ひければ文覚
  4. `高雄の神護寺へ庄一所寄せられざらん限りは全く出まじ
  5. `とて動かず
  6. `寄つて素首を突かんとすれば勧進帳を取り直し資行判官が烏帽子をはたと打つて打ち落し拳を強く握り胸をばくと突いて仰け様に突き倒す
  7. `資行判官は烏帽子を打ち落されておめおめと大床の上へぞ逃げ上る
  1. `その後文覚懐より馬の尾で柄巻いたりける刀の氷のやうなるを抜き持ちて寄せ来ん者を突かうとこそ待ちかけたれ
  2. `左の手には勧進帳右の手には刀を持て馳せ廻る間思ひ設けぬ俄事ではあり左右の手に刀を持ちたるやうにぞ見えたりける
  3. `公卿も殿上人も
  4. `こはいかに
  5. `と騒がれて御遊も既に荒れにけり
  6. `院中の騒動斜めならず
  1. `ここに信濃国の住人安藤武者右宗その時の当職にてありけるが
  2. `何事ぞ
  3. `とて太刀を抜いて走り出でたり
  4. `文覚喜うで飛んで懸かる
  5. `安藤武者斬つては悪しかりなんとや思ひけん太刀の棟を取り直し文覚が刀持ちたる肘をしたたかに打つ
  6. `打たれてちと怯む処に
  7. `えたりやをう
  8. `と太刀を捨ててぞ組んだりける
  9. `組まれながら文覚安藤武者が右の肘を突く
  10. `突かれながらぞ締めたりける
  11. `互ひに劣らぬ大力上になり下になり転び合ひける処を上下寄つて賢うに文覚が働く所の定を拷してけり
  12. `その門外へ引き出でて庁の下部に賜ぶ
  13. `賜はつて引つ張る
  14. `引つ張られて立ちながら御所の方を睨まへ大音声を揚げて
  15. `奉加をこそし給はざらめ剰へ文覚にこれほどまで辛き目を見せ給ひつれば只今思ひ知らせ申さんずるものを
  16. `三界は皆火宅なり
  17. `王宮といふともいかでかその難を遁るべき
  18. `たとひ十善の帝位に誇つたうとも黄泉の旅に出なん後は牛頭馬頭の責めをば免れ給はじものを
  19. `と躍り上がり躍り上がりぞ申しける
  20. `この法師奇怪なり
  21. `禁獄せよ
  22. `とて禁獄せらる
  1. `資行判官は烏帽子打ち落されたる恥がましさに暫しは出仕もせざりけり
  2. `安藤武者は文覚組んだる勧賞に一臈を経ずして右馬允にぞ成されける
  3. `その比美福門院隠れさせ給ひて大赦ありしかば文覚ほどなく許されけり
  4. `暫くは何処にも行ふべかりしをまた勧進帳を捧げて十方檀那を勧め歩きけるがさらばただも無くして
  5. `あつぱれこの世の中は只今乱れて君も臣も共に滅び失せんずるものを
  6. `などかやうに恐ろしき事のみ申し歩く間
  7. `この法師都に置いては叶ふまじ遠流せよ
  8. `とて伊豆国へぞ流されける
  1. `源三位入道嫡子伊豆守仲綱その時の当職にてある間その沙汰として東海道より船にて下さるべしとて伊豆国へ率て罷るに放免両三人ぞ付けられたる
  2. `これらが申しけるは
  3. `庁の下部の習ひかやうの事につけてこそ自づからの依怙も候へ
  4. `いかに聖の御房は知る人は持ち給はぬか
  5. `遠国へ流され給ふに土産粮料如きの物をも乞ひ給へかし
  6. `と云ひければ文覚は
  7. `さやうの要事云ふべき得意は無し
  8. `さりながらも東山の辺にぞ得意はあれいでさらば文を遣らう
  9. `と云ひければ怪しかる紙を尋ねて得させけり
  1. `文覚大いに怒つて
  2. `かやうの紙で物書くやうなし
  3. `とて投げ返す
  4. `さらば
  5. `とて厚紙を尋ねて得させたり
  1. `文覚笑つて
  2. `この法師は物をえ書かぬぞ
  3. `己等書け
  4. `とて書かするやう
  5. `文覚こそ高雄の神護寺造立供養の為に勧進帳を捧げて十方檀那を勧め歩きけるがかかる君の世にしも逢うて奉加をこそし給はざらめ剰へ遠流せられて伊豆国へ罷り候ふ
  6. `遠路の間で候へば土産粮料如きの物も大切に候ふ
  7. `この使に賜べ
  8. `と云ふ
  1. `云ふままに書いて
  2. `さて誰殿へと書き候ふべきやらん
  3. `清水の観音房へ
  4. `と書け
  5. `と云ふ
  6. `それは庁の下部を欺くにこそ
  7. `と云ひければ
  8. `さりとては文覚は観音をこそ深う頼み奉つたれ
  9. `さらでは誰にかは用事をば云ふべきぞ
  10. `とぞ申しける
  1. `さるほどに伊勢国阿濃津より舟にて下りけるが遠江国天龍灘にて俄に大風吹き大波立ちて既にこの舟を打ち返さんとす
  2. `水手梶取共いかにもして助からんとしけれども叶ふべしとも見えざりければ或いは観音の名号を唱へ或いは最後の十念に及ぶ
  3. `されども文覚はちつとも騒がず舟底に高鼾かいてぞ臥したりける
  1. `既にかうと見えし時かつぱと起き船の舳に立つて奥の方を睨まへ大声を張り上げて
  2. `龍王やある龍王やある
  3. `とぞ喚うだりける
  4. `何とてかやうに大願発したる聖が乗りたる舟をば過たうとはするぞ
  5. `只今天の責め蒙らんずる龍神共かな
  6. `とぞ云ひける
  1. `その故にや波風ほどなく静まりて伊豆国にぞ着きにけりる
  2. `文覚京を出でける日よりして心の内に祈誓する事ありけり
  3. `我都に帰つて高雄の神護寺造立供養すべくんば死ぬべからず
  4. `この願ひ空しかるべくんば道にて死ぬべし
  5. `とて京より伊豆へ着きけるまで折節順風なかりければ浦伝ひ島伝ひして三十一日が間は一向断食にてぞありけれども気力少しも劣らず舟底に行ひうちしてぞ居たりける
  6. `まことに只人とも覚えぬ事共多かりけり