(七三)咸陽宮

原文

  1. `また異国に先蹤を訪ふに燕の太子丹秦の始皇帝に囚はれて縛め蒙る事十二年ある時燕丹涙を流いて
  2. `我故郷に老母あり
  3. `暇を賜はつてかれを見ん
  4. `とぞ嘆きける
  5. `始皇帝嘲笑つて
  6. `汝に暇を賜ばん事
  7. `馬に角生ひ烏の頭の白くならん待つべきなり
  8. `とぞ宣ひける
  9. `燕丹天に仰ぎ地に伏して
  10. `願くは馬に角生ひ烏の頭白くして給べ
  11. `今一度本国へ帰つて母を見ん
  12. `とぞ祈りける
  1. `かの妙音菩薩は霊山浄土に詣して不孝の輩を戒め孔子顔回は支那震旦に出でて忠孝の道を始め給ふ
  2. `冥顕の三宝孝行の志を憐れみ給ふ事なれば馬に角生ひて宮中に来たり烏の頭白くなつて庭前の木に栖めりけり
  3. `始皇帝烏頭馬角の変に驚き綸言返らざる事を信じて太子丹を宥めつつ本国へこそ返されけれ
  4. `始皇なほ悔しみ給ひて
  1. `秦国と燕国の境に楚国といふ国あり大いなる河流れたり
  2. `かの河に渡せる橋をば
  3. `楚国橋
  4. `といふ
  5. `始皇前に官軍を遣はして燕丹が渡らん時河中の橋を踏まば落つるやうにしたためて渡らされたりければなじかはよかるべき河中にて落ち入りぬ
  6. `されどもちつとも水にも溺れず平地を行くが如くして向かひの岸にぞ着きにける
  7. `こはいかに
  8. `と思ひて後を顧たりければ亀共が幾らといふ数も知らず水の上に浮かれ来て甲を並べてぞ歩ませたりける
  9. `これも孝行の志を冥顕の憐れみ給ふによつてなり
  1. `燕丹また恨みを含んで始皇帝には従はず
  2. `始皇官軍を遣はして燕丹を滅ぼさんとす
  3. `燕丹大きに恐れ慄いて荊軻といふ兵を語らひて大臣に成す
  4. `荊軻また田光先生といふ兵を語らふに先生申しけるは
  5. `君はこの身が若う壮んなつし事を知ろし召してかくは頼み仰せらるるか
  6. `麒麟は千里を飛べども老いぬれば駑馬にも劣れり
  7. `この身は年老いていかにも叶ひ候ふまじ
  8. `詮ずるところよき兵を語らつてこそ参らせめ
  9. `とて既に出でんとしければ荊軻袂を控へて
  10. `あなかしここの事披露すな
  11. `と云ひければ
  12. `人間の恥には人に疑はれぬるに過ぎたる事こそ無けれ
  13. `とて荊軻が門前なる李の木に頭を突き当て打ち砕きてぞ死ににける
  1. `また樊於期といふ兵あり
  2. `これは秦国の者なりしが始皇の為に父伯叔兄弟を滅ぼされて燕国に逃げ籠る
  3. `始皇帝四海に宣旨をなし下し
  4. `燕の指図並みに樊於期が首を持つて参りたらんずる者には五百斤の金を与へん
  5. `と披露せらる
  1. `荊軻樊於期が許に行きて
  2. `我聞く汝が首五百斤の金に報ぜられたんなり
  3. `汝が首我に貸せ取りて始皇帝に奉らん
  4. `喜んで叡覧給はられん時剣を抜いて胸を刺さんは易かりなん
  5. `と云ひければ樊於期天に仰ぎ躍り上がり大息ついて申しけるは
  6. `我始皇帝の為に父伯叔兄弟を滅ぼされて夜昼これを思ふに骨髄に徹つて忍び難し
  7. `まことに始皇帝討つべからんに於いては我が首与へん事塵芥よりも易し
  8. `とて自ら首を刎ねてぞ死ににける
  1. `また秦舞陽といふ兵あり
  2. `これも秦国の者なりしが十三の歳敵を討つて燕国へ逃げ籠りぬ
  3. `彼が笑んで向かふ時はみどり子も抱かれまた怒つて向かふ時は大の男も絶入す
  4. `荊軻彼を語らつて秦の都の案内に具して行くにある片山里に宿したりける夜その辺近き里に管絃をするを聞きて調子を以て本意の事を占ふに敵の方は水なり我が方は火なり
  1. `さるほどに天も明けぬ
  2. `白虹日を貫いて通らず
  3. `我が本意遂げん事有難し
  4. `とぞ申しける
  1. `されども帰るべき道にあらねば秦の都咸陽宮に至りぬ
  2. `燕の指図並びに樊於期が首持つて参りたる由を奏聞す
  3. `臣下を以て受け取らうとし給ふ
  4. `全く人伝には参らせじ
  5. `直に奉らう
  6. `と奏する間
  7. `さらば
  8. `とて節会の儀を調へて燕の使を召されけり
  1. `咸陽宮は都の廻り一万八千三百八十里に積れり
  2. `長生殿あり不老門あり金を以て日を作り銀を以て月を作れり
  3. `真珠の沙瑠璃の沙金の沙を敷き満てり
  4. `四方には鉄の築地を高さ四十丈に築き上げて殿の上にも同じう鉄の網をぞ張りたりける
  5. `これは冥途の使を入れじとなり
  6. `秋は田面の雁春は越路へ帰るにも飛行自在の障りありとて築地には
  7. `雁門
  8. `と名付けて鉄の門を開けてぞ通されける
  9. `その中に阿房殿とて始皇の常は行幸成つて政道行はせ給ふ殿あり
  10. `東西へ九町南北へ五町大床の下には五丈の幢を立てたれどもなほ及ばぬほどなり
  11. `上をば瑠璃の瓦を葺き下には金銀を以て磨き立てたり
  1. `荊軻は燕の指図を持ち秦舞陽は樊於期が首を持つて珠の階を昇り上がりけるがあまりに内裏の夥しきを見て秦舞陽わなわなと震ひければ臣下これを怪しんで
  2. `舞陽謀反の心あり
  3. `刑人をば君の傍らに置かず君子は刑人に近づかず
  4. `近づけば即ち死を軽んずる道なり
  5. `と云へり
  6. `荊軻立ち帰つて
  7. `舞陽全く謀反の心なし
  8. `ただ田舎の賤しきにのみ習つて皇居に慣れざる故に心今迷惑す
  9. `と云ひければその時臣下皆先静まりぬ
  1. `よつて王に近づき奉り燕の指図並びに樊於期が首を見参に入るる処に指図の入りたる櫃の底に氷のやうなる剣のありけるを始皇帝御覧じてやがて逃げんとし給へば荊軻御袖をむずと控へ奉り剣を胸に差し当てたり
  2. `今はかうとぞ見えたりける
  3. `数万の軍旅は庭上に袖を連ぬといへども救はんとするに力なし
  4. `ただこの君逆臣に犯され給はん事をのみ嘆き合へりけり
  5. `始皇帝
  6. `我に暫時の暇を得させよ
  7. `后の琴の音を今一度聞かん
  8. `と宣へば荊軻暫しは犯しも奉らず
  1. `始皇帝は三千人の后を持ち給へり
  2. `その中に花陽夫人とて並びなき琴の上手おはしき
  3. `凡そこの后の琴の音を聞けば猛き武士の心も和らぎ飛鳥も落ち草木も揺るぐばかりなり
  4. `況や今を限りの叡聞に備へんと泣く泣く弾き給ふにやさこそは面白かりけめ
  5. `荊軻も首をうなだれ耳をそばだてて殆ど謀臣の心も弛みにけり
  1. `その時后始めて更に一曲を奏す
  2. `七尺の屏風は高くとも躍らばなどか越えざらん
  3. `一条の羅縠は強くとも引かばなどか絶えざらん
  4. `とぞ弾き給ふ
  5. `荊軻はこれを聞き知らず始皇帝は聞き知つて御袖を引き切つて七尺の屏風を躍り越え銅の柱の陰へ逃げ隠れさせ給ひけり
  1. `その時荊軻怒つて剣を投げかけ奉る
  2. `折節御前に番の医師の候ひけるが剣に薬の袋を投げ合はせたり
  3. `剣薬の袋を懸けられながら六尺の銅の柱を半らまでこそ切つたりけれ
  4. `荊軻また剣を持たざれば続いても投げず
  5. `王立ち帰つて御剣を召し寄せて荊軻を八つ裂きにこそし給ひけれ
  6. `秦舞陽も討たれぬ
  1. `やがて官軍を遣はして燕丹を滅ぼさる
  2. `蒼天宥し給はねば白虹日を貫いて通らず
  3. `秦始皇は遁れて燕丹つひに滅びにけり
  1. `されば今の頼朝もさこそはあらんずらめ
  2. `と式退申す人もあけるとかや