(三三)許文

原文

  1. `治承二年正月一日院御所には拝礼行はれて四日朝覲の行幸ありけり
  2. `何事も例に変はりたる事はなけれども去年の夏新大納言成親卿以下近習の人々多く流し失はれし事法皇御憤未だ止まず
  3. `されば世の政をもよろづ物憂く思し召して御心よからぬ事共にてぞ候ひける
  4. `太政入道も多田蔵人行綱が告げ知らせ奉りて後は君をも御後めたき事に思ひ奉りて上には事なきやうなれども下には用心して苦笑ひてのみぞ候はれける
  1. `正月七日彗星東方に出づ
  2. `蚩尤気
  3. `とも申す
  4. `また
  5. `赤気
  6. `とも申す
  1. `同じき十八日光を増す
  2. `入道相国の御娘建礼門院その時は未だ
  3. `中宮
  4. `と聞えさせ給ひしが御悩とて雲の上天が下の嘆きにてぞ候ひける
  5. `諸寺に御読経始まり諸社へ官幣使を立てらる
  6. `陰陽術を極め医家薬を尽くす
  7. `大法秘法一つとして残る所なう修せられけり
  8. `されども御悩ただにも渡らせ給はず御懐妊とぞ聞えし
  9. `主上は今年十八中宮は二十二に成らせ給ふ
  10. `然れども未だ皇子も姫宮も出で来させ給はず
  11. `哀れ疾くして皇子御誕生あれかし
  12. `と平家の人々只今皇子御誕生のあるやうに勇み悦び合はれけり
  13. `他家の人々も
  14. `平氏の御繁昌折を得たり皇子御誕生疑ひなし
  15. `とぞ申し合はれける
  16. `御懐妊定まらせ給ひしかば入道相国有験の高僧に仰せて大法秘法を修し星宿仏菩薩に付けて皇子御誕生とのみ祈誓せらる
  1. `六月一日中宮御着帯ありけり
  2. `仁和寺御室守覚法親王急ぎ御参内あつて孔雀経の法を以て御加持あり
  3. `天台座主覚快法親王寺の長吏円慶法親王も同じく参らせ給ひて変成男子の法を修せられけり
  4. `かかりしほどに中宮は月の重なるに随つて御身を苦しうせさせ給ふ
  5. `一度笑めば百の媚ありけん漢の李夫人昭陽殿の病の床もかくやと覚え唐の楊貴妃梨花一枝春の雨を帯び芙蓉の風に萎れ女郎花の露重げなるよりもなほ労しき御様なり
  1. `かかる御悩の折節に合はせて怖き御物怪共数多取り入り奉る
  2. `神子明王の縛にかけて霊現れたり
  3. `殊に讃岐院の御霊宇治悪左府の御憶念新大納言成親の死霊西光法師が悪霊
  4. `鬼界島の流人共の生霊
  5. `などぞ申しける
  6. `これによつて生霊も死霊も宥めらるべしとてまづ讃岐院御追号あつて崇徳天皇と号し宇治悪左府贈官贈位行はれて太政大臣正一位を贈らる
  7. `勅使は少内記惟基とぞ聞えし
  8. `件の墓所は大和国添上郡河上村般若野の五三昧なり
  9. `保元の秋掘り起して捨てられし後は死骸道の辺の土となりて年々にただ春の草のみ茂れり
  10. `今勅使尋ね来て宣命を読みけるに亡魂いかに嬉しと思しけん
  11. `怨霊は昔もかく恐ろしかりし事共なり
  12. `されば早良廃太子をば崇道天皇と号し井上内親王をば皇后の職位に復す
  13. `これ皆怨霊を宥められし策とぞ聞えし
  14. `冷泉院の御物狂はしうましまし花山法皇の十善の帝位をすべらせ給ひしは基方民部卿が霊なり
  15. `また三条院の御目も御覧ぜられざりしは寛算供奉が霊とかや
  1. `門脇宰相かやうの事共伝へ聞き給ひて小松殿に申されけるは
  2. `中宮御産の御祈様々に候ふなり
  3. `何と申すとも非常の赦に過ぎたるほどの事あるべしとも覚え候はず
  4. `中にも鬼界島の流人共を召し返されたらんほどの功徳善根何事か候ふべき
  5. `と申されたりければ父の禅門の御前におはして
  6. `あの丹波少将が事を門脇宰相あまりに嘆き申すが不便に候ふ
  7. `殊更中宮御悩の御事承り及ぶ如くんば成親卿が死霊など聞えて候ふ
  8. `大納言が死霊を宥めんと思し召さんにつけては生きて候ふ少将を召しこそ帰され候はめ
  9. `人の思ひを止めさせ給はば思し召す事も叶ひ人の願ひを叶へさせましまさば御願も即ち成就して御産平安皇子御誕生あつて家門の栄花いよいよ盛んに候ふべし
  10. `と申されければ入道相国日比より事の外に和らいで
  11. `さてさて俊寛と康頼法師が事はいかに
  12. `と宣へば
  13. `それも同じう召しこそ帰され候はめ
  14. `もし一人も残されたらんは中々罪業たるべう候ふ
  15. `と申されたりければ入道相国
  16. `康頼法師が事はさる事なれども俊寛は随分入道が口入を以て人となりたる者ぞかし
  17. `それに所しもこそ多けれ東山鹿谷山庄に寄り合ひて奇怪の振舞ひ共がありけんなれば俊寛が事は思ひも寄らず
  18. `とぞ宣ひける
  1. `小松殿帰りて伯父の宰相を呼び奉りて
  2. `少将は既に赦免あるべきで候ふぞ
  3. `御心安う思し召され候へ
  4. `と申されたりければ宰相聞きも敢へ給はず泣く泣く手を合はせてぞ悦ばれける
  5. `下り候ひし時も
  6. `これほどの事などや申し受けざらん
  7. `と思ひたりげにて教盛を見候ふ度毎に涙を流し候ひしが不便に候ふ
  8. `と申されける
  9. `小松殿
  10. `まことにさこそは思し召され候ふらめ
  11. `子は誰とても愛しければよくよく申し候はん
  12. `とて入り給ひぬ
  13. `さるほどに鬼界島の流人共召し返さるべき事定まりしかば入道相国の許文書いてぞ賜うてける
  14. `御使既に都を立つ
  15. `宰相あまりの嬉しさに御使に私の使を添へてぞ下されける
  16. `夜を昼にして急ぎ下れ
  17. `とありしかども心に任せぬ海路なれば波風を凌いで行くほどに都をば七月下旬に出でたれども長月二十日比にぞ鬼界島には着きにける