(二〇)小教訓

原文

  1. `新大納言は一間なる所に推し籠められて汗水に成りつつ
  2. `あはれこれは日比のあらまし事の洩れ聞きてけるにこそ
  3. `誰洩らしぬらん
  4. `定めて北面の輩共の中にこそあるらん
  5. `と思はじ事なう案じ続けておはしける処に後より足音の高らかにしければ
  6. `すは只今我が命失はんとて武士共が参るにこそ
  7. `と思はれければさはなくして入道自ら板敷高らかに踏み鳴らし大納言のおはしける後の障子をさつと開けられたり
  8. `素絹の衣の短らかなるに白き大口踏みくくみ聖柄の刀推し寛げて差すままに大納言を暫し睨まへて
  9. `抑も御辺は平治にも既に誅せらるべかりしを内府が身に換へて申し受け首を継ぎ奉りしはいかに
  10. `恩を知るを人とは云ふぞ
  11. `恩を知らぬ畜生とこそ云へ
  12. `然るを何の遺恨ありてこの一門滅ぼすべき結構は候ふぞ
  13. `されども当家の運命未だ尽きざるによつてこれまでは迎へたんなり
  14. `日比のあらましの次第直に承らん
  15. `と宣へば大納言
  16. `それは人の讒言にてぞ候ふらん
  17. `よくよく御尋ね候ふべし
  18. `とぞ申されける
  1. `その時入道大きに怒つて
  2. `人やある人やある
  3. `と召されければ貞能つと参りたり
  4. `西光めが白状取つて参れ
  5. `と宣へば持て参りたり
  6. `入道これを取つて推し返し推し返し読み聞かせ
  7. `あな憎やこの上をば何とか陳ずべかなるぞ
  8. `とぞ大納言の顔にさつと投げかけ障子を丁と立てて出でられけるがなほ腹に据ゑかねて
  9. `経遠兼康
  10. `と召す
  1. `難波次郎瀬尾太郎参りたり
  2. `あの男取つて庭へ引き落せ
  3. `と宣へどもこれらは左右なくもし奉らず
  4. `小松殿の御気色いかが候ふやらん
  5. `と申しければ入道
  6. `よしよし己等は内府が命をば重んじて入道が仰せをば軽うしけるごさんなれ
  7. `力及ばず
  8. `と宣へばこれら悪しかりなんとや思ひけん立ち上がり大納言の左右の手を取つて庭へ引き落し奉る
  9. `その時入道心地よげにて
  10. `取つて伏せて喚かせよ
  11. `とぞ宣ひける
  1. `二人の者共大納言の左右の耳に口を当てて
  2. `いかさまにも御声の出づべう候ふ
  3. `と囁いて引き伏せ奉れば二声三声ぞ喚かれける
  4. `その体冥途にて娑婆世界の罪人を或いは業の秤にかけ或いは浄頗梨鏡に引き向けて罪の軽重に任せつつ阿防羅刹が呵責すらんもこれには過ぎじとぞ見えし
  5. `蕭樊囚はれて韓彭爼醢たり
  6. `晁錯戮を受け周魏罪せらる
  7. `たとへば蕭何樊噲韓信彭越これらは皆高祖の忠臣たりしかども小人の讒によつて過敗の恥をかくともかやうの事をや申すべき
  8. `新大納言は我が身のかくなるにつけても子息丹波少将成経以下幼き者共のいかなる憂き目にか遭ふらんと思ひ遣るにも覚束なし
  9. `さばかり暑き六月に装束だにも寛げられず暑さも堪へ難ければ胸も塞き上ぐる心地して汗も涙も争ひてぞ流れける
  10. `さりとも小松殿は思し召し放たじものを
  11. `とは思はれけれども誰して申すべしとも覚え給はず
  1. `大臣は例の善悪に付けて騒ぎ給はぬ人にておはしければ遥かに日長けて後嫡子権亮少将維盛を車の後に乗せつつ衛府四五人随身二三人召し具して軍兵共をば一人も具せられずまことに大様げにておはしたれば入道を始め奉つて一門の人々皆思はず気にぞ見給ひける
  2. `大臣中門の口にて車より下り給ふ処へ貞能つと参つて
  3. `などこれほどの御大事に軍兵をば一人も召し具せられ候はぬやらん
  4. `と申しければ
  5. `大事とは天下の事をこそ云へかやうの私事を大事と云ふやうやある
  6. `と宣へば兵仗を帯したりける兵共皆漫ろいてぞ見えたりける
  7. `その後大臣
  8. `大納言をば何処に置き奉りたるやらん
  9. `と此処彼処の障子引き開け引き開け見給ふにある障子の上に蜘手結うたる所あり
  10. `此処やらん
  11. `とて開けられたれば大納言おはしけり
  1. `涙に咽び俯して目も見上げ給はず
  2. `いかにや
  3. `と宣へばその時見付け奉りて嬉しげに思はれたる気色地獄にて罪人共が地蔵菩薩を見奉るらんもかくやと覚えて哀れなり
  4. `何事にて候ふやらん今朝よりこれにてかかる憂き目に逢ひ候ふ
  5. `渡らせ給へばさりともとこそ深う頼み奉りて候へ
  6. `平治にも既に誅せらるべかりしを御恩を以て首を継がれ参らせ正二位の大納言に上がつて歳既に四十に余り候ふ
  7. `御恩こそ生々世々にも報じ尽くし難う候へ
  8. `今度もまたかひなき命を助けさせおはしませ
  9. `さだにも候はば身の暇を給ひて出家入道仕りいかならん片山里に籠り居て後世菩提の勤めを営み候はん
  10. `とぞ申されける
  1. `大臣
  2. `まことにさこそ思し召され候はめ
  3. `さ候へばとて御命失ひ奉るまではよも候はじ
  4. `たとひさ候ふとも重盛かうで候へば御命には代はり参らせ候ふべし
  5. `御心安う思し召され候へ
  6. `とて父の禅門の御前におはして
  7. `あの大納言失はれん事はよくよく御思惟候ふべし
  8. `先祖修理大夫顕季白河院に召し使はれ参らせしより以来家にその例なき正二位大納言に経上がりて当時君無双の御いとほしみやがて首を刎ねられん事然るべくも候はず
  9. `ただ都の外へ出だされたらんに事足り候ひなん
  1. `北野天神は時平大臣の讒奏にて憂名を四海の波に流し西宮大臣は多田満仲が讒言によつて恨みを山陽の雲に寄す
  2. `各無実なりしかども流罪せられ給ひにき
  3. `これ皆延喜の聖代安和の御門の御僻事とぞ申し伝へたる
  4. `上古なほかくの如し
  5. `況や末代に於いてをや
  6. `既に召し置かれぬる上は急ぎ失はれずとも何の恐れか候ふべき
  7. `刑の疑はしきをば軽んぜよ
  8. `功の疑はしきをば重んぜよ
  9. `とこそ見えて候へ
  1. `事新しき申し事にて候へども重盛かの大納言が妹に相具して候ふ
  2. `維盛また聟なりけり
  3. `かやうに親しうなりて候へば申すとや思し召され候ふらん
  4. `その儀では候はず
  5. `ただ君の為国の為家の為の事を思ひて申し候ふ
  1. `一年故少納言入道信西執権の時に相当たつて我が朝には嵯峨皇帝の御時右兵衛督藤原仲成を誅せられてより以来保元までは君二十五代の間行はれざりし死罪を初めて執り行ひ宇治の悪左府の死骸を掘り起いて実検せられたりし御事なんどは余りなる御政とこそ存じ候へ
  2. `されば古の人も
  3. `死罪を行へば海内に謀反の輩絶えず
  4. `とこそ承りて候へ
  5. `やがてこの詞に付けて中二年ありて平治にまた世乱れて信西が埋もれたりしを掘り起し首を刎ねて大路を渡され候ひき
  6. `保元に申し行ひし事幾ほどもなくてはや身の上に向かはれにきと思へば恐ろしうこそ候へ
  7. `これはさせる朝敵にも候はず
  8. `旁恐れあるべし
  9. `御栄花残るところなければ思し召さるる事あるまじけれども子々孫々までも繁昌こそあらまほしう候へ
  10. `父祖の善悪は必ず子孫に及ぶとこそ見えて候ふ
  11. `積善の家には余慶あり積悪の門には余殃足らずとこそ承れ
  12. `いかさまにも今夜首を刎ねられん事然るべうも候はず
  13. `と申されたりければ入道げにもとや思はれけん死罪は思ひ止まり給ひけり
  1. `その後大臣中門に出でて侍共に宣ひけるは
  2. `仰せなればとてあの大納言失はん事左右なうあるべからず
  3. `入道腹立ちのままに物騒がしき事し給ひて後に必ず悔しみ給ふべし
  4. `僻事して我恨むな
  5. `と宣へば兵共皆舌を振つて恐れ戦慄く
  1. `さても今朝経遠兼康があの大納言に情なう当たり奉りたる事返す返すも奇怪なれ
  2. `何ど重盛が帰り聞かんずる所をば恐れざりけるぞ
  3. `片田舎の侍はかかるぞとよ
  4. `と宣へば難波も瀬尾も共に恐れ入りたりけり
  5. `大臣はかやうに宣ひて小松殿へぞ帰られける
  1. `さるほどに大納言の侍共急ぎ中御門烏丸の宿所へ帰り参つてこの由かくと申しければ北方以下の女房達声々に喚き叫び給ひけり
  2. `少将殿を始め参らせて幼き人々も皆囚はれさせ給ふべしとこそ承りて候へ
  3. `急ぎ何方へも忍ばせ給ふべうもや候ふらん
  4. `と申しければ
  5. `今はこの身とても安穏にて何かはせん
  6. `ただ一夜の露とも消えん事こそ本意なれ
  7. `さては今朝を限りにておはしつる事の悲しさよ
  8. `とて引き被いてぞ臥し給ふ
  1. `既に武士共の近づく由聞えしかばかくてまた恥がましううたてき目を見んもさすがなればとて十に成り給ふ女子八歳の男子一つ車に取り乗せて何方を指すともなく遣り出だす
  2. `さてもあるべき事ならねば大宮を上りに北山の辺雲林院へぞおはしける
  3. `その辺なる僧坊に下ろし置き奉り送りの者共は身々の捨て難さに皆暇申して帰りにけり
  4. `今は稚き幼き人々ばかり残り居てまた事問ふ人もなくしておはしける
  1. `北方の心の内推し量られて哀れなり
  2. `暮れゆく影を見給ふにつけても大納言の露の命今明のこの夕べを限るなりと思ひ遣るにも消えぬべし
  3. `宿所には女房侍多かりけれども物をだに取したためず門をだに押しも立てず
  4. `馬共厩に並み立ちたれども草飼ふ者一人もなし
  5. `夜明くれば馬車門に立ち並み賓客座に列なつて遊び戯れ舞ひ踊り世を世ともし給はず近き辺の者共は物をだに高く云はず怖ぢ恐れてこそ明くるまでもありしに夜の間に変はる有様盛者必衰の理も目の前にこそ顕れたれ
  6. `楽しび尽きて悲しび来たる
  7. `と書かれたる江相公の筆の跡今こそ思ひ知られけれ