原文
- `陸奥の国蒲生氏郷の家に
- `岡左内といふ武士あり
- `禄おもく誉たかく
- `丈夫の名を関の東に震ふ
- `此士いと偏固なる事あり
- `富貴をねがふ心常の武辺にひとしからず
- `倹約を宗として家の掟をせしほどに
- `年を積みて富み昌えけり
- `かつ軍を調練す間には
- `茶味翫香を娯しまず
- `庁上なる所に許多の金を布き班べて心を和むる事
- `世の人の月花にあそぶに勝れり
- `人みな左内が行跡をあやしみて
- `吝嗇野情の人なりとて
- `爪はぢきをして悪みけり
- `家に久しき男に
- `黄金一枚かくし持ちたるものあるを聞きつけて
- `ちかく召していふ
- `崑山の璧もみだれたる世には瓦礫にひとし
- `かかる世にうまれて弓矢とらん躯には
- `棠谿墨陽の劒
- `さてはありたきもの財宝なり
- `されど良劔なりとて
- `千人の敵には逆ふべからず
- `金の徳は天が下の人をも従へつべし
- `武士たるもの漫に扱ふべからず
- `かならず貯へ蔵むべきなり
- `汝賤しき身の分限に過ぎたる財を得たるは嗚呼の事なり
- `賞なくばあらじとて
- `十両の金を給ひ
- `刀をも赦して召しつかひけり
- `人これを伝へ聞きて
- `左内が金をあつむるは
- `長啄にして飽かざる類にはあらず
- `只当世の一奇士なりとぞいひはやしける
- `其夜左内が枕上に
- `人のきたる音しけるに
- `目さめて見れば灯台の下に
- `ちひさげなる翁の笑をふくみて坐れり
- `左内枕をあげて
- `ここに来るは誰そ
- `我に糧からんとならば
- `力量の男どもこそ参りつらめ
- `汝かやうの耄けたるさまして
- `ねぶりを魘ひつるは
- `狐狸などのたはむるるにや
- `何のおぼえたる術かある
- `秋の夜の目さましに
- `そと見せよとて
- `すこしも騒ぎたる容色なし
- `翁いふ
- `かく参りたるは魑魅にあらず人にあらず
- `君がかしづき給ふ黄金の精霊なり
- `年来篤くもてなし給ふうれしさに
- `夜話せんとて推してまゐりたるなり
- `君が今日家の子を賞じ給ふに感でて
- `翁が思ふこころばへをも語り和さまんとて
- `仮に化を見はし侍るが
- `十にひとつも益なき閑談ながら
- `いはざるは腹満つれば
- `わざとにまうでて眠をさまたげ侍る
- `さても富みて驕らぬは大聖の道なり
- `さるを世の悪ことばに
- `富めるものはかならず慳し
- `富めるものは多く愚なりといふは
- `晋の石祟
- `唐の王元宝が如き
- `犲狼蛇蝎の徒のみをいへるなりけり
- `往古に富める人は
- `天の時をはかり
- `地の利を察めて
- `おのづからなる富貴を得るなり
- `呂望斉に封ぜられて民に産業を教ふれば
- `海方の人利に走りてここに来朝ふ
- `管仲九たび諸候をあはせて
- `身は倍臣ながら富貴は列国の君に勝れり
- `范蠡
- `子貢
- `白圭が徒
- `財を粥ぎ利を逐ふて
- `巨万の金を畳みなす
- `これらの人をつらねて貨殖伝を書し侍るを
- `其いふ所陋しとてのちの博士筆を競ふて謗るは
- `ふかく穎らざる人の語なり
- `恒の産なきは恒の心なし
- `百姓は勤めて穀を出し
- `工匠等修めてこれを助け
- `商賈務めて此を通はし
- `おのれおのれが産を治め家を富まして
- `祖を祭り子孫を謀る外
- `人たるもの何をか為さん
- `諺にもいへり
- `千金の子は市に死せず
- `富貴の人は王者とたのしみを同じうすとなん
- `まことに渕深ければ魚よく遊び
- `山長ければ獣よくそだつは
- `天の随なることわりなり
- `只貧しうして楽しむてふ語ありて
- `字を学び韻を探る人の惑をとる端となりて
- `弓矢とるますら雄も富貴は国の基なるをわすれ
- `あやしき計策をのみ調練ひて
- `ものを伐り人を傷ひ
- `おのが徳をうしなひて子孫を絶つは
- `財を薄んじて名を重しとする惑なり
- `おもふに名とたからと求むるに心二つある事なし
- `文字てふものに繋がれて
- `金の徳を薄んじてはみづから清潔と唱へ
- `鋤を揮ふて棄てたる人を賢しといふ
- `さる人はかしこくとも
- `さる事は賢からじ
- `金は七の宝の最なり
- `土に埋れては霊泉を湛へ
- `不浄を除き妙なる音を蔵せり
- `かく清よきものの
- `いかなれば愚昧貧酷の人にのみ集ふべきやうなし
- `今夜此憤を吐きて
- `年来のこころやりをなし侍る事の喜しさよといふ
- `左内興じて席をすすみ
- `さてしもかたらせ給ふに
- `富貴の道のかたき事
- `己がつねにおもふ所露違はずぞ侍る
- `ここに愚なる問事の侍るが
- `ねがふは詳に示させ給へ
- `今ことわらせ給ふは専ら金の徳を薄しめ
- `富貴の大業なる事をしらざるを罪とし給ふなるが
- `かの紙魚がいふ所もゆゑなきにあらず
- `今の世に富めるものは
- `十が八ツまではおほかた貧酷残忍の人多し
- `おのれは俸禄に飽きたりながら
- `兄弟一属をはじめ
- `祖より久しくつかふるものの貧しきを救ふ事をもせず
- `隣に栖みつる人のいきほひをうしなひ
- `他の援さへなく世にくだりしものの田畑をも
- `価を賤くして強ちに己が物とし
- `今おのれは村長とうやまはれても
- `むかしかりたる人の物をかへさず
- `礼ある人の席を譲れば
- `其人を奴の如く見おとし
- `たまたま旧き友の寒暑を訪らひ来れば
- `物からんためかと疑ひて
- `宿にあらぬよしを応へさせつる類あまた見来りぬ
- `又君に忠なるかぎりを竭し
- `父母に孝廉の聞えあり
- `貴きを尊み
- `賤しきを扶くる意ありながら
- `三冬のさむきにも一裘に起き臥し
- `三伏の暑きにも一葛を濯ぐいとまなく
- `年豊なれども朝に晡に一椀の粥に腹をみたしめ
- `さる人はもとより朋友の訪ふ事もなく
- `かへりて兄弟一属にも通を塞られ
- `交を絶たれて其怨を訴ふる方さへなく
- `汲々として一生を終ふるもあり
- `さらばその人は作業にうときゆゑかと見れば
- `夙に起き遅く臥して性力を凝し
- `西に走りまどふ蹺蹊さらに閑なく
- `その人愚にもあらで
- `才を用ゐるに的るはまれなり
- `これらは顔子が一瓢の味をもしらず
- `かく果つるを仏家には前業をもて説きしめし
- `儒門には天命と教ふ
- `もし未来あるときは
- `現世の陰徳善功も来世のたのみありとして
- `人暫くここに憤を休めん
- `されば富貴のみちは仏家にのみその理をつくして
- `儒門の教は荒唐なりとやせん
- `霊も仏の教にこそ憑らせ給ふらめ
- `否ならば詳にのべさせ給へ
- `翁いふ
- `君が問ひ給ふは往古より論じ尽さざることわりなり
- `かの仏の御法を聞けば
- `富と貧しきは前生の脩否に因るとや
- `此はあらましなる教へぞかし
- `前生にありしとき
- `おのれをよく脩め
- `慈悲の心専らに
- `他人にもなさけふかく接りし人の
- `その善報によりて
- `今此生に富貴の家にうまれきたり
- `おのがたからをたのみて他人にいきほひをふるひ
- `あらぬ狂言をいひ訇り
- `あさましき夷こころをも見するは
- `前生の善心かくまでなりくだる事は
- `いかなるむくひのなせるにや
- `仏菩薩は名聞利要を嫌み給ふとこそ聞きつる物を
- `など貧福の事にかかづらひ給ふべき
- `さるを富貴は前生のおこなひの善かりし所
- `貧賤は悪しかりしむくいとのみ説きなすは
- `尼媽を蕩かすなま仏法ぞかし
- `貧福をいはず
- `ひたすら善を積まん人は
- `その身に来らずとも
- `子孫はかならず幸福を得べし
- `宗廟これを饗けて子孫これを保つとは
- `此のことわりの細妙なり
- `おのれ善をなして
- `おのれその報の来るを待つは
- `直きこころにもあらずかし
- `又悪業慳貧の人の富み昌ゆるのみかは
- `寿めでたくその終をよくするは
- `我に異なることわりあり
- `霎時聞かせたまへ
- `我今仮に化をあらはして話るといへども
- `神にあらず仏にあらず
- `もと非情の物なれば
- `人と異なる慮あり
- `又卑吝貪酷の人は
- `金銀を見ては父母の如くしたしみ
- `食ふべきをも喫はず
- `穿べきをも着ず
- `得がたきいのちさへ惜しとおもはで
- `起きておもひ臥してわすれねば
- `ここにあつまる事目前なることわりなり
- `我もと神にあらず仏にあらず
- `只これ非情なり
- `非情のものとして人の善悪を糾し
- `それにしたがふべきいはれなし
- `善を撫で悪を罪するは
- `天なり神なり仏なり
- `三ツのものは道なり
- `我輩の及ぶべきにあらず
- `只かれらがつかへ伝く事の恭しきにあつまるとしるべし
- `これ金に霊あれども
- `人とこころの異なる所なり
- `また富みて善根を種ゆるにも
- `故なきに恵みほどこし
- `その人の不義をも察らめず
- `借しあたへたらん人は
- `善根なりとも財はつひに散ずべし
- `これらは金の用を知りて金の徳をしらず
- `かろくあつかふが故なり
- `又身のおこなひもよろしく
- `人にも志誠ありながら世に窮められて苦しむ人は
- `天蒼氏の賜すくなく生れ出でたるなれば
- `精神を労しても
- `いのちのうちにや富貴を得る事なし
- `さればこそいにしへの賢き人は
- `もとめて益あればもとめ益なくばもとめず
- `己が好むまにまに
- `世を山林にのがれてしづかに一生を終る
- `心のうちいかばかり清しからんとは羨みぬるぞ
- `かくいへど富貴のみちは術にして
- `巧なるものはよく湊め
- `不肖のものは瓦の解くるより易し
- `且我輩は
- `人の生産につき廻りて
- `たのみとする主もさだまらず
- `ここにあつまるかとすれば
- `その主のおこなひによりて忽ちにかしこに走る
- `水のひくき方に傾くがごとし
- `夜に昼にゆきゆきて休むときなし
- `ただ閑人の生産もなくてあらば
- `泰山もやがて喫ひ尽すべし
- `江海もつひに飲みほすべし
- `いくたびもいふ
- `不徳の人の財を積むは
- `これとあらそふことわり
- `君子は論ずる事なかれ
- `時を得たらん人の倹約を守り
- `つひえを省きてよく務めんには
- `おのづから家富み人服すべし
- `我は仏家の前業もしらず
- `儒門の天命にもかかはらず
- `異なる境にあそぶなりといふ
- `左内いよいよ興に乗じて
- `霊の議論きはめて妙なり
- `旧しき疑念も今夜に消じつくしぬ
- `試にふたたび問はん
- `今豊臣の威風四海を靡し
- `五畿七道漸しづかなるに似たれども
- `亡国の義士彼此に潜み竄れ
- `或は大国の主に身を托せて世の変をうかがひ
- `かねて志を遂げんと策る
- `民も又戦国の民なれば
- `耒を釈てて矛に易へ
- `農事を事とせず
- `士たるもの枕を高くして眠るべからず
- `今の体にては長く不朽の政にもあらじ
- `誰か一統して民をやすきに居らしめんや
- `又誰にか合し給はんや
- `その末期の言に
- `当時信長は果報いみじき大将なり
- `我平生に他を侮りて征伐を怠り此疾にかかる
- `我子孫も即て他に亡されんといひしとなり
- `謙信は勇将なり
- `信玄死しては天が下に対なし
- `不幸にして遽くみまかりぬ
- `信長の器量人に優れたれども
- `信玄の智に及かず謙信の勇に劣れり
- `しかれども富貴を得て
- `天が下の事一回は此人に依ず
- `任ずるものを辱しめて命を殞すにて見れば
- `文武を兼ねしといふにもあらず
- `秀吉の志大なるも
- `はじめより天地に満つるにもあらず
- `柴田と丹羽が富貴をうらやみて羽柴といふ氏を設けしにてしるべし
- `今龍と化して太虚に昇り
- `池中をわすれたるならずや
- `秀吉龍と化したれども蛟蜃の類なり
- `蛟蜃の龍と化したるは
- `寿わづかに三歳を過ぎずと
- `これもはた後なからんか
- `それ驕をもて治めたる世は往古より久しきを見ず
- `人の守るべきは倹約なれども
- `過ぐるものは卑吝に陥つる
- `されば倹約と卑吝の境
- `よくわきまへて務むべきものにこそ
- `今豊臣の政久しからずとも万民和ははしく
- `戸々に千秋楽を唱はん事ちかきにあり
- `君が望にまかすべしとて八字の句を諷ふ
- `そのことばにいはく
- `尭蓂日杲
- `百姓帰㆑家
- `数言興尽きて遠寺の鐘五更を告ぐる
- `夜既に曙けぬ
- `別をたまふべし
- `今夜の長談まことに君が眠をさまたぐと
- `起ちてゆくやうなりしが
- `かき消して見えずなりにけり