七の二蛇性の淫第二部

原文

  1. `二郎の姉が家は石榴市といふ所に
  2. `田辺の金忠といふ商人なりける
  3. `豊雄が訪ひ来るを喜び
  4. `かつ月ごろのことどもをいとほしがりて
  5. `いついつまでもここに住めとて
  6. `ねんごろに労りけり
  1. `年かはりて二月になりぬ
  2. `此石榴市といふは
  3. `泊瀬の寺ちかき所なりき
  4. `仏の御中には泊瀬なんあらたなる事を
  5. `唐土までも聞えたるとて
  6. `都より辺鄙より詣づる人の
  7. `春はことに多かりけり
  8. `詣づる人は必ずここに宿れば
  9. `軒を並べて旅人をとどめける
  1. `田辺が家は御明灯心の類を商ひぬれば
  2. `所せく人の入たちける中に
  3. `都の人の忍び詣と見えて
  4. `いとよろしき女一人了鬟一人
  5. `薫物もとむとてここに立ちよる
  6. `此了鬟豊雄を見て
  7. `吾君のここにいますはといふに
  8. `驚きて見れば
  9. `かの真女子まろやなり
  10. `あな恐しとて内に隠るる
  11. `金忠夫婦こは何ぞといへば
  12. `かの鬼ここにひ来る
  13. `あれに近寄り給ふなと隠れ惑ふを
  14. `人々そはいづくにと立ち騒ぐ
  15. `真女子入り来りて
  16. `人々な怪しみ給ひそ
  17. `吾夫の君な恐れ給ひそ
  18. `おのが心より罪に堕し奉る事の悲しさに
  19. `御有家もとめて
  20. `事の由縁をもかたり御心放せさせ奉らんとて
  21. `御住家尋ねまゐらせしに
  22. `かひありてあひ見奉る事の喜しさよ
  23. `あるじの君よく聞きわけて給へ
  24. `我もし怪しき物ならば
  25. `此人繁きわたりさへあるに
  26. `かうのどかなる昼をいかにせん
  27. `に縫目あり日にむかへば影あり
  28. `これ正しきことわりを思しわけて
  29. `御疑を解かせ給へ
  1. `豊雄漸人ごこちして
  2. `汝正しく人ならば
  3. `我捕はれて武士等とともにゆきて見れば
  4. `きのふにも似ず浅ましく荒れ果てて
  5. `まことに鬼の住むべき宿に一人居るを
  6. `人々等捕へんとすれば
  7. `忽ち青天霹靂を震ふ
  8. `跡なくかき消えぬるをまのあたり見つるに
  9. `又逐ひ来て何をかなす
  10. `すみやかに去れといふ
  11. `真女子涙を流して
  12. `まことにさこそおぼさんはことわりなれど
  13. `をもしばし聞かせ給へ
  14. `公庁に召され給ふと聞きしより
  15. `かねてをかけつる隣の翁をかたらひ
  16. `に野らなる宿のさまをこしらへし
  17. `我を捕らんずるときに鳴神響かせしはまろやが計較りつるなり
  18. `其後船もとめて難波の方に遁れしかど
  19. `御消息しらまほしく
  20. `ここの御仏にたのみを懸けつるに
  21. `二本の杉のしるしありて
  22. `喜しき瀬にながれあふことは
  23. `ひとへに大悲の御徳かうむりたてまつりしぞかし
  24. `種々の神宝は何とて女の盗み出すべき
  25. `前のらぬ心にてこそあれ
  26. `よくよくおぼしわけて
  27. `思ふ心の露ばかりをもうけさせ給へとてさめざめと泣く
  1. `豊雄
  2. `或は疑ひ或は憐みて
  3. `かさねていふべき詞もなし
  4. `金忠夫婦真女子がことわりの明かなるに
  5. `此女しきふるまひを見て
  6. `努疑ふ心もなく
  7. `豊雄のもの語りにては世に恐しき事よと思ひしに
  8. `さる例あるべき世にもあらずかし
  9. `はるばると尋ねまどひ給ふ御心ねのいとほしきに
  10. `豊雄ずとも我々とどめまゐらせんとて
  11. `一間なる所に迎へける
  12. `ここに一日二日を過すままに
  13. `金忠夫婦が心をとりて
  14. `ひたすら嘆きたのみける
  15. `其志の篤きに愛でて
  16. `豊雄をすすめてつひに婚儀をとりむすぶ
  17. `豊雄も日々に心とけて
  18. `もとより容姿のよろしきを愛でよろこび
  19. `千とせをかけて契るには
  20. `葛城や高間の山に夜々ごとにたつ雲も
  21. `初瀬の寺の暁の鐘に雨収まりて
  22. `只あひあふ事の遅きをなん恨みける
  1. `三月にもなりぬ
  2. `金忠豊雄夫婦にむかひて
  3. `都わたりのは似るべうもあらねど
  4. `さすがに紀路にはまさりぬらんかし
  5. `名細の吉野は春はいとよき所なり
  6. `三船の山
  7. `菜摘川常に見るとも飽かぬを
  8. `此頃はいかにおもしろからん
  9. `いざ給へ出で立ちなんといふ
  10. `真女子うち笑みて
  11. `よき人のよしと見給ひし所は
  12. `都の人も見ぬを恨みに聞え侍るを
  13. `我身稚きより
  14. `人おほき所
  15. `或は道の長手をあゆみては
  16. `必ず気のぼりてくるしき病あれば
  17. `従駕にえ出で立ち侍らぬぞいと憂れたけれ
  18. `山土産必ず待ちこひ奉るといふを
  19. `そはあゆみなんこそ病も苦しからめ
  20. `車こそもたらね
  21. `いかにもいかにも土は踏せまゐらせじ
  22. `留り給はんは豊雄のいかばかり心もとなかりつらんとて
  23. `夫婦すすめたつに
  24. `豊雄もかうたのもしくのたまふを
  25. `道に倒るるともいかでかはと聞ゆるに
  26. `不慮ながら出でたちぬ
  1. `人々花やぎて出でぬれど
  2. `真女子がなるには似るべうもあらずぞ見えける
  3. `何某の院はかねて心よく聞えかはしければここに訪らふ
  4. `主の僧迎へて
  5. `此春は遅く詣で給ふことよ
  6. `花もなかばに散り過ぎて鴬の声もやや流るめれど
  7. `猶よき方にしるべし侍らんとて
  8. `夕食いと清くして食せける
  9. `明けゆく空いたう霞みたるも
  10. `晴れゆくままに見わたせば
  11. `此院は高き所にて
  12. `ここかしこ僧坊どもあらはに見おろさるる
  13. `山の鳥どももそこはかとなく囀りあひて
  14. `木草の花色々に咲きまじりたる
  15. `同じ山里ながら目さむるここちせらる
  16. `初詣には滝ある方こそ見所はおほかめれとて
  17. `彼方にしるべの人乞ひて出でたつ
  18. `谷をりて下りゆく
  19. `いにしへ行幸の宮ありし所は
  20. `はしる滝つせのむせび流るるに
  21. `ちいさき鮎どもの水にふなど
  22. `目もあやにおもしろし
  23. `桧破子打ち散らして喰ひつつあそぶ
  1. `岩がねづたひに来る人あり
  2. `髪は績麻をわがねたる如くなれど
  3. `手足いと健かなる翁なり
  4. `此滝の下にあゆみ来る
  5. `人々を見てあやしげにまもりたるに
  6. `真名子もまろやも此人をに見ぬふりなるを
  7. `翁渠二人をよくまもりて
  8. `あやし
  9. `邪神など人をまどはす
  10. `翁がまのあたりをかくても有るやとつぶやくを聞きて
  11. `此二人忽ち躍りたちて滝に飛び入ると見しが
  12. `水は大虚に湧きあがりて見えずなるほどに
  13. `雲摺る墨をうちこぼしたる如く
  14. `雨篠を乱してふり来る
  15. `翁人々の慌忙て惑ふをまつろへて人里にくだる
  1. `賤しき軒にかがまりて生けるここちもせぬを
  2. `翁豊雄にむかひ
  3. `熟そこのを見るに
  4. `此隠神のために悩まされ給ふが
  5. `吾救はずばつひに命をも失ひつべし
  6. `後よく慎み給へといふ
  7. `豊雄地に額著きて
  8. `此事の始よりかたり出で
  9. `猶命得させ給へとて
  10. `恐れみ敬まひて願ふ
  1. `翁さればこそ
  2. `此邪神は年経たるなり
  3. `かれが性は淫なる物にて
  4. `牛とみては麟を生み
  5. `馬とあひては龍馬を生むといへり
  6. `はせつるも
  7. `はたそこの秀麗きにけたると見えたり
  8. `かくまでねきをよく慎み給はずば
  9. `おそらくは命を失ひ給ふべしといふに
  10. `人々いよよ恐れ惑ひつつ
  11. `翁をまへて遠津神にこそと拝みあへり
  12. `翁打ち笑みて
  13. `おのれは神にもあらず
  14. `大倭神社に仕へまつる当麻酒人といふ翁なり
  15. `道の程見立ててまゐらせん
  16. `いざ給へとて出でたてば
  17. `人々につきて帰り来る
  1. `の日大倭の郷にゆきて
  2. `翁が恵を
  3. `且美濃絹三
  4. `筑紫綿二り来り
  5. `猶此妖灾身禊し給へとつつしみて願ふ
  6. `翁これを納めて
  7. `祝部等にわかちあたへ
  8. `自は一をもとどめずして
  9. `豊雄にむかひ
  10. `汝が秀麗きにけて汝を纏ふ
  11. `汝又畜が仮のはされて丈夫心なし
  12. `今より雄気してよく心を静まりまさば
  13. `此等の邪神を逐はんに翁が力をもかり給はじ
  14. `ゆめゆめ心を静まりませとてかにしぬ
  15. `豊雄夢のさめたるここちに
  16. `礼言尽きずして帰り来る
  1. `金忠にむかひて
  2. `此年月畜にはされしは己が心の正しからぬなりし
  3. `親兄のをもなさで
  4. `君が家のならんは由縁なし
  5. `御恵いとかたじけなけれど
  6. `又も参りなんとて
  7. `紀の国に帰りける
  1. `父母太郎夫婦
  2. `此おそろしかりつる事を聞きて
  3. `いよよ豊雄が過ならぬを憐み
  4. `かつは妖怪の執ねきを恐れける
  5. `かくてにてあらするにこそ
  6. `妻むかへさせんとてはかりける
  7. `芝の里に芝の庄司なるものあり
  8. `女子一人もてりしを
  9. `大内の采女にまゐらせてありしが
  10. `此度いとま申し給はり
  11. `此豊雄を聟がねにとて
  12. `媒氏をもて大宅が許へいひ
  13. `よき事なりて
  14. `やがてをなしける
  1. `かくて都へも迎の人を登せしかば
  2. `此采女富子なるものよろこびて帰り来る
  3. `年来の大宮仕に馴れこしかば
  4. `万の行儀よりして
  5. `姿なども花やぎまさりけり
  6. `豊雄ここに迎へられて見るに
  7. `此富子がかたちいとよく心に足らひぬるに
  8. `かのが懸想せしこともおろおろおもひ出づるなるべし
  9. `はじめのは事なければ書かず
  1. `二日の夜
  2. `よきほどの酔ひごこちにて
  3. `年来の大内住
  4. `辺鄙の人ははたうるさくまさん
  5. `かのわたりにては
  6. `何の中将宰相の君などいふに添ひぶし給ふらん
  7. `今更にくくこそおぼゆれなど戯るるに
  8. `富子やがて面をあげて
  9. `古き契を忘れ給ひて
  10. `かくことなる事なき人を時めかし給ふこそ
  11. `こなたよりまして悪くあれといふは
  12. `姿こそかはれ
  13. `正しく真女子が声なり
  1. `聞くにあさましう
  2. `身の毛もたちて恐しく
  3. `只あきれまどふを
  4. `女打ちゑみて
  5. `吾君な怪しみ給ひそ
  6. `海に誓ひ山に盟ひし事を速くわすれ給ふとも
  7. `さるべきえにしのあれば又もあひ見奉るものを
  8. `し人のいふことをまことしくおぼして
  9. `強ちに遠ざけ給はんには
  10. `恨み報いなん
  11. `紀路の山々さばかり高くとも
  12. `君が血をもて峰より谷に潅ぎくださん
  13. `あたら御身をいたづらになし果て給ひそといふに
  14. `只わななきにわななかれて
  15. `今やとらるべきここちに死にいりける
  16. `屏風のうしろより
  17. `吾君いかにむつかり給ふ
  18. `かうめでたき御契なるはとて出づるはまろやなり
  19. `見るに又胆を飛ばし
  20. `を閉ぢて伏向に臥す
  21. `和めつしつ
  22. `かはるがはる物うちいへど
  23. `只死に入りたるやうにて夜明けぬ
  1. `かくて閨房をのがれ出でて庄司にむかひ
  2. `かうかうの恐しき事あなり
  3. `これいかにしてけなん
  4. `よく計り給へといふも
  5. `にや聞くらんと声をかにしてかたる
  6. `庄司も妻も面をくして嘆きまどひ
  7. `こはいかにすべき
  8. `ここに都の鞍馬寺の僧の
  9. `年々熊野に詣づるが
  10. `きのふより此向岳蘭若に宿りたり
  11. `いともなる法師にて
  12. `凡そ疫病
  13. `妖灾
  14. `などをもよく祈るよしにて
  15. `此郷の人は貴みあへり
  16. `此法師へてんとて
  17. `あわただしく呼びつげるに
  18. `漸して来りぬ
  1. `しかじかのよしを語れば
  2. `此法師鼻を高くして
  3. `これからの蠱物等らんは何の難き事にもあらじ
  4. `必ず静まりおはせとやすげにいふに
  5. `人々心落ちゐぬ
  6. `法師まづ雄黄をもとめて薬の水を調じ
  7. `小瓶に湛へてかの閨房にむかふ
  8. `人々驚ぢ隠るるを
  9. `法師みわらひて
  10. `老いたるも童も必ずそこにおはせ
  11. `只今捉りて見せ奉らんとてすすみゆく
  1. `閨房の戸あくるを遅しと
  2. `かの蛇をさし出して法師にむかふ
  3. `此頭何ばかりの物ぞ
  4. `此戸口に充ち満ちて
  5. `雪を積みたるよりも白くきらきらしく
  6. `は鏡の如く
  7. `角は枯木の如く
  8. `余りの口を開き
  9. `紅の舌を吐いて
  10. `只一呑に飲むらん勢をなす
  11. `あなやと叫びて
  12. `手にすゑし小瓶をもそこに打すてて
  13. `たつ足もなく展転びはひ倒れて
  14. `からうじてのがれ来り
  15. `人々にむかひ
  16. `あな恐ろし
  17. `祟ります御神にてましますものを
  18. `など法師らが祈り奉らん
  19. `此手足なくば
  20. `はた命失なひてんといふいふ絶え入りぬ
  21. `人々扶け起すれど
  22. `すべて面も肌も黒く赤く染めなしたるがごとくに
  23. `熱き事焚火に手さすらんにひとし
  24. `毒気にあたりたると見えて
  25. `後は只眼のみはたらきて物いひたげなれど
  26. `声さへなさでぞある
  27. `ぎなどすれどつひに死にける
  1. `これを見る人いよよ魂も身に添はぬ思ひして泣きまどふ
  2. `豊雄すこし心を収めて
  3. `かく験なる法師だも祈り得ず
  4. `執ねく我を纏ふものから
  5. `天地のあひだにあらんかぎりは探し得られなん
  6. `おのが命ひとつに人々を苦しむるはならず
  7. `今は人をもかたらはじ
  8. `やすくおぼせとて閨房にゆくを
  9. `庄司の人々こは物に狂ひ給ふかといへど
  10. `更に聞かずにかしこにゆく
  1. `戸を静に明くれば物の騒がしき音もなくて
  2. `此二人ぞむかひゐたる
  3. `富子豊雄にむかひて
  4. `君何の復讐に我を捉へんとて人をかたらひ給う
  5. `此後も仇をもて報ひ給はば
  6. `君が御身のみにあらじ
  7. `此郷の人々をもすべて苦しきめ見せなん
  8. `ひたすら吾貞操をうれしとおぼして
  9. `徒々しき
  10. `御心をなおぼしそと
  11. `いとけさうしていふぞうたてかりき
  12. `豊雄いふは
  13. `世の諺にも聞けることあり
  14. `人かならず虎を害する心なけれども
  15. `虎反りて人をありとや
  16. `汝人ならぬ心より
  17. `我を纏ふて幾度かからきめを見するさへあるに
  18. `かりそめ言をだにも此恐しき報をなんいふは
  19. `いとむくつけなり
  20. `されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば
  21. `ここにありて人々の嘆き給はんがいたはし
  22. `此富子が命ひとつたすけよかし
  23. `さて我をいづくにも連ゆけといへば
  24. `いと喜しげに点頭きをる
  1. `又立ち出でて庄司にむかひ
  2. `かう浅ましきものの添ひてあれば
  3. `ここにありて人々を苦しめ奉らんはいと心なきことなり
  4. `只今暇給はらば
  5. `娘子の命も恙なくおはすべしといふを
  6. `庄司更に肯けず
  7. `我弓の本末をもしりながら
  8. `かくいひがひなからんは大宅の人々のおぼす心もはづかし
  9. `計較りなん
  10. `小松原の道成寺に法海和尚とて貴き祈の師おはす
  11. `今は老いて室の外にも出でずと聞けど
  12. `我為にはいかにもいかにも捨て給はじとて
  13. `馬にていそぎ出でたちぬ
  14. `道遥なれば夜なかばかりに蘭若に到る
  1. `老和尚眠蔵をゐざり出で
  2. `此物がたりを聞きて
  3. `そは浅ましくおぼすべし
  4. `今は老い朽て験あるべくもおぼえ侍らねど
  5. `君が家のを黙してやあらん
  6. `まづおはせ
  7. `法師もやがて詣でなんとて
  8. `芥子のにしみたる袈裟とり出で
  9. `庄司にあたへ
  10. `をやすくすかしよせて
  11. `これをもてに打ち被け
  12. `力を出して押しふせ給へ
  13. `手弱くあらば恐らくは逃げさらん
  14. `よく念じてよくなし給へと実やかに教ふ
  15. `庄司よろこびつつ馬を飛ばしてかへりぬ
  1. `豊雄を密に招きて
  2. `此事よくしてよとて袈裟をあたふ
  3. `豊雄これを懐に隠して閨房にゆき
  4. `庄司今はいとまたびぬ
  5. `いざたまへ出で立ちなんといふ
  6. `いと喜しげにてあるを
  7. `此袈裟とり出ではやく打ち被け
  8. `力をきはめて押しふせぬれば
  9. `あな苦し
  10. `汝何とて情なきぞ
  11. `しばしここせよかしといへど
  12. `猶力にまかせて押しふせぬ
  13. `法海和尚の輿やがて入り来る
  14. `庄司の人々に扶けられてここにいたり給ひ
  15. `口のうちつぶつぶと念じ給ひつつ
  16. `豊雄を退けて
  17. `かの袈裟とりて見給へば
  18. `富子は現なく伏したる上に
  19. `白きの三あまりなる蟠りて動だもせずてぞある
  20. `老和尚これを捉へて
  21. `徒弟が捧げたる鉄鉢に納れ給ふ
  22. `猶念じ給へば
  23. `屏風のより
  24. `ばかりの小蛇はひ出づるを
  25. `是をも捉りて鉢に納れ給ひ
  26. `かの袈裟をもてよく封じ給ひ
  27. `そがままに輿に乗らせ給へば
  28. `人々をあはせ
  29. `涙を流して敬ひ奉る
  1. `蘭若に帰り給ひて
  2. `堂の前を深く掘らせて鉢のままに埋めさせ
  3. `永劫があひだ世に出づることを戒しめ給ふ
  4. `今猶が塚ありとかや
  5. `庄司が女子はつひに病にそみてむなしくなりぬ
  6. `豊雄は命恙なしとなんかたりつたへける