九三山の神

原文

  1. `これは和野の人菊池菊蔵と云ふ者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり
  2. `この妻親里へ行きたる間に、糸蔵と云ふ五六歳の男の児病気になりたれば、昼過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり
  3. `名に負ふ六角牛の峰続きなれば山路は樹深く、殊に遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方はなり
  4. `日影は此に隠れてあたり薄暗くなりたる頃、後の方より
  5. `菊蔵
  6. `と呼ぶ者あるに振返りて見れば、崖の上より下を覗くものあり
  7. `顔はの光りかがやけること前の話の如し
  8. `お前の子はもう死んで居るぞ
  9. `と云ふ
  10. `この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはつと思ひたりしが、早其姿は見えず
  11. `急ぎ夜の中に妻を伴ひて帰りたれば、果して子は死してありき
  1. `四五年前のことなり

注釈

`ウドとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などいふはすべての如き小さき切通しのことならん