七 出家遁世
原文
- `すべて世の中のありにくきこと我が身と住家とのはかなくあだなる様かくの如し
- `況んや処により身の程に随ひて心を悩ますことはあげて数ふべからず
- `もし自ずから身かなはずして権門の傍らに居る者は深く悦ぶことはあれども大いに楽しぶに能はず
- `嘆きある時も声をあげて泣くことなし
- `進退やすからず
- `立居につけて恐れをののく
- `たとへば雀の鷹の巣に近づけるが如し
- `もし貧しくして富める家の隣に居るものは朝夕すぼき姿を恥ぢて諂ひつつ出で入る妻子僮僕の羨める様を見るにも富める家のないがしろなる気色を聞くにも心念々に動きて時としてやすからず
- `もし狭き地に居れば近く炎上する時その災いを遁るることなし
- `もし辺地にあれば往反煩ひ多く盗賊の難離れがたし
- `勢ひある者は貪欲深く一人身なる者は人に軽しめらる
- `宝あれば恐れ多く貧しければ嘆き切なり
- `頼めば身他の奴となり人をはごくめば心恩愛につかはる
- `世にしたがへば身苦し
- `したがはねば狂へるに似たり
- `いづれの所をしめいかなるわざをしてか暫しもこの身を宿し玉ゆらも心を慰むべき
- `我が身父方の祖母の家を伝へて久しく彼の所に住む
- `その後縁かけ身衰へてしのぶかたがた繁かりしかど遂に跡とむることを得ずして三十余にして更に我が心と一つの庵を結ぶ
- `これをありし住居になずらふるに十分が一なり
- `ただ居屋ばかりを構へてはかばかしく屋を作るに及ばずわづかに築地をつけりといへども門建つるにたづきなし
- `竹を柱として車宿りとせり
- `雪ふり風吹くごとに危ふからずしもあらず
- `所は河原近ければ水の難深く白波の恐れも騒がし
- `すべてあらぬ世を念じ過しつつ心を悩ませること三十余年なり
- `その間折々のたがひめに自ずから短き運をさとりぬ
- `即ち五十の春を迎へて家を出で世を背けり
- `もとより妻子なければ捨て難きよすがもなし
- `身に官禄あらず何につけてか執をとどめん
- `空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる