一二六生食

現代語訳

  1. `寿永三年一月一日、院の御所として用いられた六条西洞院にある大膳大夫業忠の屋敷は、御所の体をなさないということで、儀式を行わなかったため、拝礼もなかった
  2. `院の拝礼がないので、内裏において祝辞を述べる儀式も行われなかった
  1. `平家は讃岐国八島の磯での年越しであったため、新年ながら三か日の儀式もままならなかった
  2. `安徳天皇がおられたが、節会も行われず、四方の拝もなかった
  3. `も献上しなかった
  4. `吉野の国栖も行われなかった
  5. `世が乱れているとはえ、京ならこんな体たらくにはならなかっただろうに
  6. `と皆言い合った
  1. `陽春が訪れ、海を渡る風も柔らかになり、日差しものどかになってきたが、平家の人々だけはいつも氷に閉じ込められた心地で、まるで天竺の雪山で寒さに凍える寒苦鳥がごとくであった
  2. `東岸西岸の柳の芽吹きは遅速を交え、南枝北枝の梅の花は開落の時をずらして、花の朝、月の夜、詩歌、管絃、鞠、小弓、扇合わせ、絵合わせ、草尽くし、虫尽くしなど、さまざまな楽しい遊びがあったことなどを思い出され、長い一日を物憂く過ごされておられるのも哀れであった
  1. `同・一月十一日、木曽左馬頭義仲が院の御所に参上し、平家追討のために西国へ発向する由を奏聞した
  2. `同・十三日、まさに門出というときに、鎌倉の前右兵衛佐・源頼朝は、木曽の狼藉を鎮圧するため数万騎の軍兵を差し向けられ、それがはや美濃国・伊勢国にも到着したと聞いて、義仲殿はおおいに驚き、宇治、勢田の橋を引いて軍兵たちを分けて配置した
  3. `折しもその軍勢は少なかった
  4. `まず勢田橋へは、追手となるので今井四郎兼平に八百余騎を任せて向かわせた
  5. `宇治橋へは、仁科、高梨、山田次郎には五百余騎を向かわせた
  6. `一口へは、伯父の信太三郎先生義教が三百余騎で向かった
  7. `東国から攻め上る追手の大将軍には、蒲御曹司・源範頼、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、宗徒の大名三十余人、総勢六万余騎とのことであった
  1. `当時、頼朝殿のもとに生食、磨墨という評判の名馬がいた
  2. `生食をば梶原源太景季は譲ってほしいと熱心に頼んでいたが
  3. `これはいざというときに私が武装して乗るときの馬だ
  4. `これも生食に劣らぬ名馬だぞ
  5. `と言って、景季に磨墨を与えた
  1. `その後、佐々木四郎高綱が出陣を伝えに参上すると、頼朝殿は何を思われたか
  2. `欲しがる者は大勢いるが、そのことを知っておけ
  3. `と生食を佐々木に与えた
  4. `高綱はかしこまり
  5. `高綱、このたびはこの御馬に跨って宇治川の先鋒に立ちます
  6. `もし死んだとお聞きになったら、人に先を越されたとお思いください
  7. `まだ生きているお聞きになったら、確かに宇治川の戦陣を私が取ったとお思いください
  8. `と言って御前を退いた
  9. `居合わせた大名・小名は
  10. `なんと大きな口を叩いたものよ
  11. `とささやき合われた
  1. `おのおの鎌倉を発って、足柄山を経る者たちもあれば、箱根を越える者たちもあり、思い思いに京を目指している途中、駿河国の浮島が原で梶原景季が高いところに登り、しばらくそこに留まって多くの馬を眺めていたとき、思い思いの鞍を置き、いろいろな鞦を掛け、ある者は鐙の脇で差縄を引かせ、ある者は馬の左右から両口を引かせ、幾千万という数を知らず通り過ぎるのを
  2. `景季が賜った磨墨に勝る馬はない
  3. `と嬉しく思っていると、生食と思しき馬が現れた
  4. `金覆輪の鞍を置き、小房の鞦を掛け、口より白泡を吹かせ、舎人が何人も添っていたが、それでも制御できずに躍り出てきた
  1. `景季は近寄って尋ねた
  2. `この御馬は誰の御馬か
  3. `佐々木殿の御馬でございます
  4. `と答える
  5. `佐々木とは、三郎盛綱殿か、四郎高綱殿か
  6. `四郎高綱殿の御馬にございます
  7. `と行き過ぎようとした
  8. `景季は
  9. `それは聞き捨てならぬ
  10. `同じように頼朝殿に召し使われているのに、この景季から佐々木高綱に心移りされたとは恨めしい
  11. `今度都へ上り、義仲殿の身内で四天王と言われる今井、樋口、楯、根井と組み合って死ぬか、そうでなければ西国へ向って一騎当千と言われる平家の侍たちと戦って死のうと思っていた
  12. `だがこの様子ではそれも無駄だ
  13. `ならば、ここで佐々木高綱を待ち受け、組み合って差し違え、大事な侍が二人死んで頼朝殿に損失をお与えしよう
  14. `と呟いて待ち伏せていた
  1. `高綱はそんなことなどつゆ知らず、馬を進めて来た
  2. `景季は馬を並べて組みつこうか、向こうがわに突き落とそうかと考えたが、まずは声をかけた
  3. `いやあ、佐々木殿は生食を賜って上洛なさるところですか
  4. `と言うと、佐々木は
  5. `そういえばこの男も内々欲しがっていたと聞いたことがある
  6. `ととっさに思い出し
  7. `そのことなんですが
  8. `今この大事で上洛するのですが、間違いなく宇治や勢田の橋は外されているでしょう
  9. `とはいえ、乗って川を渡る馬を持っておりません
  10. `生食をいただきたいとは思いましたが、貴殿が所望されているにもかかわらずお許しがないと聞き、ましてこの高綱ごときがお願いしたところで無理でしょう
  11. `後日にいかなるお咎めがあっても受けようと思いつつ、明日発つという日の早朝、舎人と示し合わせて、あれほど大切にされていた生食を盗み出し、上ろうとしているのです、梶原殿
  12. `と言うと、景季はこの言葉に腹の虫が治まり
  13. `これはやられた
  14. `そんなことならおれも盗めばよかった
  15. `と、どっと笑って去っていった