一八六女院出家

原文

  1. `建礼門院は東山の麓吉田の辺なる所にぞ立ち入らせ給ひける
  2. `中納言法印慶恵と申す奈良法師の坊なり
  3. `住み荒らして年久しうなりければ庭には草深く軒には忍繁れり
  4. `簾絶え閨顕にて雨風堪るべうもなし
  5. `花は色々匂へども主と頼む人もなく月は夜な夜な差し入れども詠めて明かす人もなし
  6. `昔は玉の台を磨き錦の帳に纏はれて明かし暮らさせ給ひしが今はありとしある人も皆別れ果ててあさましげなる朽坊に入らせ給ひけん御心の内推し量られて哀れなり
  7. `魚の陸に上れるが如く鳥の巣を離れたるが如し
  8. `さるままには憂かりし波の上船の内の御住まひも今は恋しうぞ思し召されける
  9. ``蒼波路遠寄思於西海千里雲
  10. ``白屋苔深落涙東山一庭月
  11. `悲しとも云ふばかりなし
  1. `かくて女院は文治元年五月一日御髪下ろさせ給ひけり
  2. `御戒の師には長楽寺の阿証房上人印誓とぞ聞えし
  3. `御布施には先帝の御直衣なり
  4. `今はの時まで召されたりければ御移り香も未だ失せず御形見に御覧ぜんとて西国より遥々と都まで持たせ給ひたりしかばいかならん世までも御身を放たじとこそ思し召されけれども御布施になりぬべき物のなき上且つはかの御菩提の為にもとて泣く泣く取り出ださせおはします
  5. `上人これを賜つて何と奏すべき旨もなくして墨染の袖を顔に押し当て泣く泣く御所をぞ罷り出でられける
  6. `件の御衣をば幡に縫うて長楽寺の仏前に懸られけるとぞ聞えし
  1. `女院は十五にて女御の宣旨を蒙り十六にて后妃の位に備はり君王の傍らに候はせ給ひて朝には朝政を進め夜は夜を専にし給へり
  2. `二十二にて皇子御誕生あつて皇太子に立ち位に即かせ給ひしかば院号蒙らせ給ひて
  3. `建礼門院
  4. `とぞ申しける
  5. `入道相国の御娘なる上天子の国母にてましませば世の重うし奉る事斜めならず今年は二十九にぞ成らせましましける
  6. `桃李の御粧なほ濃やかに芙蓉の御形未だ衰へさせ給はねども翡翠の御簪を付けても何にかはせさせ給ふべきなればつひに御様を変へさせ給ひてけり
  1. `憂き世を厭ひまことの道に入らせ給へども御嘆きは更に尽きせず
  2. `人々今はかくとて海に沈みし有様先帝二位殿の御面影ひしと御身に添ひていかならん世に忘るべしとも思し召さねば露の御命何しに今まで長らへてかかる憂き目を見るらんとて御涙塞き敢へさせ給はず
  3. `皐月の短夜なれども明かしかねさせ給ひつつ自づからうち微睡ませ給はねば昔の事をば夢にだにも御覧ぜず
  4. `壁に背ける残んの燈の影幽かに終夜窓打つ暗き雨の音ぞ寂しかりける
  5. `上陽人が上陽宮に閉ぢられたりけん悲しみもこれには過ぎじとぞ見えし
  6. `昔をしのぶつまとなれとてや元の主の移し植ゑ置きたりけん花橘の風懐かしく軒近く香りけるに山時鳥の二声三声音信れて通りければ女院古き事なれども思し召し出でて御硯の蓋にかうぞ遊ばされける
  7. `ほととぎす花たちばなのかをとめてなくはむかしの人やこひしき
  1. `女房達は二位殿越前三位の上のやうに水の底にも沈み給はねば武士の荒けなきに捕はれて旧里に帰り老いたるも若きも或いは様を変へ或いは形を窶してあるにもあられぬ有様共にて思ひもかけぬ谷の底岩の挟間にてぞ明かし暮らし給ひける
  2. `住まひし宿は皆煙となつて上りにしかば空しき跡のみ残つて茂き野辺となりつつ見慣れし人の問ひ来るもなし
  3. `仙家より帰つて七世の孫に逢ひけんもかくやと覚えて哀れなり
  4. `去んぬる七月九日の大地震に築地も壊れ荒れたる御所も傾き破れていとど住ませ給ふべき御便もなし

書下し文

  1. ``蒼波路遠し思ひを西海千里の雲に寄す
  2. ``白屋苔深くして涙東山一庭の月に落つ