一四九戒文

原文

  1. `未だ左右を申さざりけるほどは人々内々いぶせう思はれつるに請文既に到来してければ
  2. `さればこそ我が朝の重宝三種神器を重衡一人に替へ参らせんとはよも申されじとこそ思ひつるに
  3. `とぞ申し合はれける
  4. `三位中将も
  5. `内府以下一門の者共がさこそ悪う思はんずらめ
  6. `と後悔せられけれどもかひぞなき
  1. `請文既に到来して本三位中将重衡卿関東へ下らるべきと聞えしかば都の名残も今更惜しうや思はれけん土肥次郎実平を召して
  2. `出家をぞしたきは
  3. `と宣へばこの由を九郎御曹司へ申す
  1. `院御所へ奏聞せられたりければ法皇
  2. `頼朝に見せて後こそともかうも計らはめ
  3. `只今はいかでか許すべき
  4. `と仰せければこの由を中将殿に申す
  1. `さらば年来契つたる聖に今一度対面して後生の事を申談ぜばやと思ふはいかに
  2. `と宣へば土肥次郎
  3. `聖をば誰と申し候ふやらん
  4. `黒谷の法然房といふ人なり
  5. `さては苦しう候ふまじ
  6. `疾う疾う
  7. `とて許し奉る
  1. `三位中将斜めならずに悦びやがて聖を請じ奉つて泣く泣く申されけるは
  2. `さては今度生きながら囚はれて候ひける事は二度上人の御見参に入るべきにて候ひけり
  3. `重衡が後生いかが仕り候ふべき
  4. `身の身にて候ひしほどは出仕に紛れ政務に絆され驕慢の心のみ深くして当来の昇沈を顧みず
  5. `況や運尽き世乱れて都を出でし後は彼処に戦ひ此処に争ひ人を滅ぼし身を助からんと思ふ悪心のみ遮つて善心はかつて起らず
  6. `就中南都炎上の事は王命といひ武命といひ君に仕へ世に随ふ法遁れ難うして罷り向かつて候へば不慮に伽藍の滅亡に及び候ひぬる事は力及ばざる次第なり
  7. `時の大将軍にて候ひし間責め一人に帰す
  8. `とかや申し候ふなれば重衡一人が罪業にこそなり候ひぬらめと覚え候ふ
  9. `且つはかれこれ恥を曝し候ふ事も併しながら報いとのみこそ思ひ知られて候へ
  1. `今は頭をも剃り戒を持ちなどして偏に仏道修行したう候へどもかかる身に罷り成りて候へば心に心をも任せ候はず
  2. `今日明日をも知らぬ身の行末にていかならん行を修しても一業助かりぬべしとも覚えぬ事こそ口惜し候へ
  3. `つらつら一生の化行を案ずるに罪業は須弥よりも高く善業は微塵ばかりも蓄へなし
  4. `かくて命空しう終はり候ひなば火血刀の苦果敢へて疑ひなし
  1. `願はくは上人慈悲を起し憐れみを垂れ給ひてかかる悪人の助かりぬべき方法候はば示し給へ
  2. `と申されければその時上人涙に咽び俯して暫しはとかう事も宣はず
  1. `ややあつて上人宣ひけるは
  2. `まことに受け難き人身を受けながら空しく三途に帰りましまさん事なほ余りあり
  3. `然るに今穢土を厭ひ浄土を願はんに悪心を捨て善心を起しましまさん事は三世の諸仏も定めて随喜し給ふらん
  1. `それにつき出離の道まちまちなりと申せども末法濁乱の機には称名を以て勝れたりとす
  2. `志を九品に分かち行を六字に縮めていかなる愚痴闇鈍の者も唱ふるに便りあり
  3. `罪深ければとて卑下し給ふべからず
  4. `十悪五逆廻心すれば往生を遂ぐ
  5. `功徳少なければとて望みを絶つべからず
  6. `一念十念の心を致せば来迎す
  1. `専称名号至西方
  2. `と釈して専ら名号を称すれば西方に至り
  3. `念々称名常懺悔
  4. `と宣ひて念々に弥陀を唱ふれば懺悔するなりとぞ教へける
  5. `利剣即是弥陀号
  6. `を頼めば魔縁近づかず
  7. `一声称念罪皆除
  8. `と念ずれば罪皆除けりと見えたり
  1. `浄土宗の至極各略を存じて大略これを肝心とす
  2. `但し往生の得否は信心の有無によるべし
  3. `ただこの教へ深く信じて行住座臥時処諸縁を嫌はず三業四威儀に於いて心念口称を忘れ給はず畢命を期としてこの苦界を出でかの不退土に往生し給はん事何の疑ひかあらんや
  4. `と教化し給へば三位中将斜めならず悦び
  5. `この序でに戒持たばやと存じ候へども出家仕らでは叶ひ候ふまじや
  6. `と申されたりければ上人
  7. `出家せぬ人も戒を持つ事は世の常の習ひなり
  8. `とて額に剃刀を当て剃る真似をして十戒を授けらる
  1. `三位中将随喜の涙を流いてこれを受け持ち給ふ
  2. `上人も万物哀れに覚えて掻き暗す心地して泣く泣く戒をぞ説かれける
  3. `御布施と思しくて日比おはして遊ばれける侍の許に預け置かれたりける御硯を知時して召し寄せて上人に奉り申されけるは
  4. `相構へてこれをば人に賜び候はで常に御目の懸からん所に置かれ候ひて某が物と御覧ぜん度毎に御念仏候ふべし
  5. `また御隙には経をも一巻御廻向候はば然るべう候ふ
  6. `と申されければ上人とかうの返事にも及び給はずこれを取つて懐に入れ墨染の袖を顔に押し当て泣く泣く黒谷へぞ帰られける
  7. `件の硯は親父入道相国の宋朝の帝へ砂金を多く参らせ給ひたりしかば返報と思しくて
  8. `日本和田平大相国の許へ
  9. `とて送られたりけるとかや
  10. `名をば
  11. `松陰
  12. `とぞ申しける