一一六那都羅

原文

  1. `同じき八月十日の日木曾左馬頭に成つて越後国を賜はる
  2. `その上
  3. `朝日将軍
  4. `といふ院宣をぞ下されける
  5. `十郎蔵人備後守に成つて備後国を賜はる
  6. `木曾は越後を嫌へば伊予を賜ぶ
  7. `十郎蔵人備後を嫌へば備前を賜はる
  8. `その外源氏十余人受領検非違使靱負尉兵衛尉にぞ成されける
  1. `同じき十六日前内大臣宗盛公以下平家の一類百六十人が官職を停めて殿上の御札を削らる
  2. `その中に平大納言時忠卿内蔵頭信基讃岐中将時実この三人削られず
  3. `その故は
  4. `主上並びに三種神器事故なう都へ還し入れ奉れ
  5. `と時忠卿の許へ度々仰せ下されけるによつてなり
  1. `同じき十七日平家は筑前国三笠郡太宰府にこそ着き給へ
  2. `菊池二郎高直は都より平家の御供に候ひけるが
  3. `大津山の関開いて参らせん
  4. `とて肥後国にうち越え己が城に楯籠り召せども召せども参らず
  5. `その外九州二島の兵共やがて参るべき由領状をば申しながら一人も参らず
  6. `当時は岩戸諸卿大蔵種直ばかりぞ候ひける
  1. `平家安楽寺へ参りて歌詠み連歌して宮仕へ給ひしに本三位中将重衡卿
  2. `住みなれしふるき都のこひしさは神もむかしにおもひしるらん
  3. `人々まことに哀れに覚えて皆袖をぞ濡らされける
  1. `同じき二十日都には法皇の宣命にて四宮閑院殿にて位に即かせ給ふ
  2. `摂政は元の摂政近衛殿替らせ給はず頭や蔵人成し置いて人々皆退出せられけり
  3. `三宮の御乳母泣き悲しみ後悔すれどもかひぞなき
  4. `天に二つの日なし国に二人の王なし
  5. `とは申せども平家の悪行によつてこそ京田舎に二人の王はましましけれ
  1. `昔文徳天皇天安二年八月二十三日に隠れさせ給ひぬ
  2. `御子の宮達数多御位に望みをかけてましましければ内々御祈共ありけり
  3. `一の御子惟喬親王をば木原皇子とも申しき
  4. `王者の才量を御心に懸け四海の安危掌中に照らし百王の理乱は御心に懸け給へり
  5. `されば賢聖の名をも取らせましましぬべき君なりと見え給へり
  6. `二宮惟仁親王はその比の執柄忠仁公の御娘染殿后の御腹なり
  7. `一門の公卿列してもてなし奉らせ給ひしかばこれもまた差し置き難き御事なり
  8. `かれは守文継体の器量あり
  9. `これは万機輔佐臣相あり
  10. `かれもこれも労しくていづれも思し召し煩はされき
  11. `一の御子宮惟喬親王家の御祈は柿本紀僧正信済とて東寺の一の長者弘法大師の御弟子なり
  12. `二宮惟仁親王家の御祈には外祖忠仁公の御持僧比叡山の恵亮和尚ぞ承られける
  13. `いづれも劣らぬ高僧達なり
  14. `頓に事行き難うやあらんずらんと人々内々囁き合はれけり
  1. `案の如く帝隠れさせ給ひしかば公卿僉議あり
  2. `抑も臣等が慮りを以て選んで位に即け奉らん事用捨私有に似たり万人唇を返すべし
  3. `知らず競馬相撲の節を遂げその運を知り雌雄によつて宝祚授け奉るべし
  4. `と議定畢んぬ
  1. `さるほどに同じき九月二日二人の宮達右近馬場へ行啓ありけり
  2. `時に王公卿相玉の轡を並べ花の袂を粧ひ雲の如くに重なり星の如くに列なり給へり
  3. `これ稀代の勝事天下の壮観日比心を寄せ奉りし月卿雲客両方に引き分かつて手を握り心を砕き給へり
  1. `御祈の高僧達いづれか疎略あらんや
  2. `信済僧正は東寺に壇を立て恵亮和尚は大内の真言院に壇を立て祈られけるが
  3. `恵亮は失せたり
  4. `といふ披露をなさば信済僧正少し弛む心もやおはすらんとて
  5. `恵亮は失せたり
  6. `といふ披露をなして肝胆を砕いて祈られけり
  1. `既に十番の競馬始まる
  2. `初め四番は一宮惟喬親王家勝たせ給ふ
  3. `後六番は二宮惟仁親王家勝たせ給ふ
  4. `やがて相撲の節あるべしとて一宮惟喬親王家より那都羅右兵衛とて凡そ六十人が力現したるゆゆしき人を出だされたり
  5. `惟仁親王家よりは善雄少将とて背小さう妙にして片手に合ふべしとも見えぬ人
  6. `御夢想の御告あり
  7. `とて申し受けてぞ出だされける
  1. `さるほどに那都羅善雄寄り合ひてひしひしと褄取りして退きにけり
  2. `暫くあつて那都羅つつと寄り善雄少将を取つて提げ二丈ばかりぞ投げ上げたる
  3. `ただ直つて倒れず
  4. `善雄またつと寄りえい声を出だして那都羅を取つて伏せんとす
  5. `那都羅も共にえい声を揚げて善雄を取つて伏せんとす
  6. `幸ひに劣らぬ大力されども那都羅は大の男嵩に廻る
  1. `善雄は危なう見えければ二宮の御母儀染殿后より御使櫛の歯の如くに繁う走り重なつて
  2. `御方既に負け色に見ゆ
  3. `いかがせん
  4. `と仰せければ恵亮和尚大威徳の法を行はれけるが
  5. `こは心憂き事なり
  6. `とて独鈷を以て頭を突き破り脳を砕し乳に和して護摩に焚き黒煙を立て一揉み揉まれたりければ善雄相撲に勝ちにけり
  7. `二宮位に即かせ給ふ
  8. `清和帝これなり
  1. `後には水尾天皇とも申しき
  2. `それよりして山門には聊かの事にも
  3. `恵亮脳を砕けば二帝位に即き尊位智剣を振りしかば菅相納受し給ふ
  4. `とも伝へたり
  5. `これのみや法力にてもありけん
  6. `その外は皆天照大神の御計らひなりとぞ見えたりける