一四六五

原文

  1. `抑もこの源三位入道頼政は摂津守頼光に五代三河守頼綱が孫兵庫頭仲正が子なりけり
  2. `保元の合戦の時も御方にて先を駆けたりしかどもさせる賞にも預らず
  3. `また平治の逆乱にも既に親類を捨てて参じたりしかども恩賞これおろそかなりき
  4. `大内守護にて年久しうありしかども昇殿をば許されず
  5. `年闌け齢傾いて後述懐の和歌一首詠みてこそ昇殿をばしたりけれ
  6. `人しれず大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな
  7. `この歌によつて昇殿許され正下四位にて暫くありしがなほ三位を心にかけつつ
  8. `のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな
  9. `さてこそ三位はしたりけれ
  10. `やがて出家して源三位入道頼政とて今年は七十五にぞ成られける
  1. `この人一期の高名と思しき事は仁平の比ほひ近衛院御在位の時主上夜な夜な怯えさせ給ふ事ありけり
  2. `有験の高僧貴僧に仰せて大法秘法を修せられけれどもその験なし
  3. `御悩は丑の刻ばかりの事なるに東三条の森の方より黒雲一叢立ち来たつて御殿の上に覆へば必ず怯えさせ給ひけり
  4. `これによつて公卿僉議ありけり
  1. `去んぬる寛治の比ほひ堀川院御在位の御時しかの如く主上夜な夜な怯え魂極らせ給ふ事ありけり
  2. `その時の将軍には義家朝臣南殿の大床に候はれけるが御悩の刻限に及んで鳴弦する事三度の後高声に
  3. `前陸奥守源義家
  4. `と名乗りたりければ聞く人身の毛よだつて御悩必ずおこたらせ給ひけり
  1. `然れば即ち先例に任せて武士に仰せて警固あるべしとて源平両家の兵の中を選ませられけるにこの頼政を選び出だされたりける
  2. `その時は未だ兵庫頭にて候はれけるが申されけるは
  3. `昔より朝家に武士を置かるる事は逆反の者を退け違勅の輩を滅ぼさんが為なり
  4. `目にも見えぬ変化の物仕れ
  5. `と仰せ下さるる事未だ承り及ばず
  6. `と申しながら勅宣なれば召しに応じて参内す
  1. `頼政は頼み切つたる郎等遠江国の住人猪早太に幌の風切矧いだりける矢負はせてただ一人ぞ具したりける
  2. `我が身は二重の狩衣に山鳥の尾を以て矧いだりける鋒矢二筋滋籐の弓に取り添へて南殿の大床に伺候す
  3. `頼政矢二つ手挟みける事は雅頼卿その時は未だ左少弁にておはしけるが
  4. `変化の物仕らんずる仁は頼政ぞ候ふらん
  5. `と選び申されたる間一の矢に変化の物射損ずるほどならば二の矢には雅頼弁のしや首の骨を射んとなり
  6. `案の如く日比人の申すに違はず御悩の刻限に及んで東三条の森の方より黒雲一叢立ち来たつて御殿の上に棚引いたり
  1. `頼政きつと見上げたれば雲の中に怪しき物の姿あり
  2. `射損ずるほどならば世にあるべしとも覚えず
  3. `さりながら矢取つて番ひ
  4. `南無八幡大菩薩
  5. `と心の内に祈念してよつ引いてひやうと放つ
  6. `手応へしてはたと当たる
  7. `得たりやをう
  8. `と矢叫びをこそしてけれ
  9. `猪早太つつと寄り落つるところを取つて押さへ柄も拳も通れと続け様に九刀ぞ刺したりける
  10. `その時上下手々に火を燃やいてこれを御覧じ見給ふに頭は猿体は狸尾は蛇手足は虎の姿にて鳴く声鵺にぞ似たりける
  11. `恐ろしなどもおろかなり
  12. `主上御感のあまりに獅子王と申す御剣を下さる
  13. `宇治左大臣殿これを賜はり次いで頼政に賜ばんとて御前の階を半ばかり下りさせ給ふ
  1. `比は卯月十日余りの事なれば雲井に郭公二声三声音づれて通りければ左大臣殿
  2. `ほととぎす名をも雲井にあぐるかな
  3. `と仰せかけられたりければ頼政右の膝をつき左の袖を広げ月を少し目にかけつつ
  4. `弓はり月のいるにまかせて
  5. `と仕り御剣を賜はつて罷り出づ
  6. `この頼政卿は弓矢取つても並びなき上歌道も勝れたり
  7. `とぞ君も臣も御感ありける
  8. `さてかの変化の物をば空ろ舟に入れて流されけるとぞ聞えし
  1. `また応保の比ほひ二条院御在位の御時鵺といふ化鳥禁中に鳴いて屡々宸襟を悩ます事ありけり
  2. `然れば先例に任せて頼政をぞ召されける
  3. `比は皐月二十日余りまだ宵の事なるに鵺ただ一声音づれて二声とも鳴かざりけり
  4. `目指すとも知らぬ闇なれば姿形も見えずして矢壺を何処とも定め難し
  5. `頼政策にまづ大鏑取つて番ひ鵺の声したりける内裏の上へぞ射上げたる
  6. `鵺鏑の音に驚いて虚空に暫し喞めいたる
  7. `二の矢に小鏑取つて番ひひいふつと射切つて鵺と鏑と並べて前にぞ落したる
  8. `禁中さざめき合ひ頼政に御衣を被けさせおはします
  1. `今度は大炊御門右大臣公能公これを賜はり次いで頼政賜ばんとて
  2. `昔の養由は雲の外の雁を射き
  3. `今の頼政は雨の内に鵺を射たり
  4. `とぞ感ぜられける
  5. `五月やみ名をあらはせる今宵かな
  6. `と仰せられかけたりければ頼政
  7. `たそがれ時も過ぎぬとおもふに
  8. `と仕り御衣を肩にかけて罷り出づ
  1. `その後伊豆国賜はり子息仲綱受領に成し我が身三位して丹波の五箇庄若狭の東宮川を知行してさておはすべかりし人の由もなき謀反起いて宮をも失ひ参らせ我が身も滅びぬるこそうたてけれ